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日記972


 

 〈二一日〉二〇日。漆黒の闇のなか、到着。風呂に入り、ベッドに入り、一〇時まで眠る。一一~一二時、水中(潮の流れているところ)に建てられた優雅なパゴダのある寺まで、岸辺沿いに至福の散歩。午後、稲垣といっしょに、島に人工的に作られた山の頂上まで遠足。日本の内海の見事な眺め。柔和この上ない色彩。途中に無数の小さな寺。自然神を祀っている。時には喜ばしい石像も。階段の道はすべて花崗岩を切ったもの(標高七〇〇メートルほど)。日本人の自然への愛情と各種の愛すべき迷信の記念碑。――昼、ゾルフから電報。私が身の安全を図って日本に逃げたとするハルデンの主張を否定する件。私の回答は、事情が複雑なので電報では無理、手紙を書く、というもの。晩に手紙を書いた。真実に即して。

 

 

アルバート・アインシュタイン著 ゼエブ・ローゼンクランツ編『アインシュタインの旅行日記 日本・パレスチナ・スペイン』(畔上司 訳、草思社、p.190)より。1922年(大正11年)12月20日。ちょうど百年前。アインシュタインがこのとき日本に来たひとつの理由は、ドイツ(ヴァイマル共和国)国内の政治的な緊張の高まりから逃れるためだった。この日の手紙のなかで「ハルデンの主張」について、アインシュタインは「あの申し立ては正確ではありませんし、完全に間違っているわけでもありません」と述べている。「否定しきれないが、あいつマジ迷惑」みたいな内容の手紙。それもこの本に一部収録されている。

「水中に建てられた優雅なパゴダ」は、厳島神社の鳥居のこと。

 


 

これ。手前でかっこつけてる男性はわたしの祖父(故人)。祖父は旧国鉄の職員だったため、祖母の証言によると、いつでも無料で電車に乗り放題であったという。どこまででも。にわかには信じがたい話。そんなことがあっていいのか。

 

 

12月18日(日)

M-1グランプリをリアルタイムで見た。何年ぶりか。じっくり見ると、自分のなかにある好みの基準が浮かび上がってくる(気がした)。その基準とは、「関係のなさ」。関係ないことをやっている演者にぐっとくる。その際、とくに笑えなくてもいい。昨年はランジャタイがいちばん関係なかった。ことしはヨネダ2000がいちばん関係なかった。わ、わかりやすい……。

「関係のなさ」とは第一に、評価者との関係のなさ。きちんと評価されようとしない態度が好きだ。もちろん、やってる本人は評価されたいのだろうけれど。あと、ランジャタイもヨネダ2000もあまり言語的ではない。ことばで関係を構築しない、という点にも好感をもつ。

わかりよくスムーズな「意味」を超えてくるものが見たいのだと思う。意味がわかるネタはつまらない。言語の断層が見たい。

で、「関係のなさ」において何より重要なポイントは、観客として「あのふたりが楽しければそれでいい」と思わされてしまう、気持ちよく突き放される感覚。ランジャタイとヨネダ2000の共通点は、勝手に楽しそうなところである。なにやってんのかぜんぜんわかんないけど、楽しそうだからよし!と思える。ふたりだけで行けるところまで行ってほしい。

とかく、漫才にかぎらず、なんであれ「勝手にやってる表現」をわたしは好ましく感じる。有無を言わさずはじめてしまう、はじまってしまう、心臓の鼓動にかぎりなく近い、そんなものが好き。

 

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