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日記973


 

DEC 21

12月21日(金)

 まだ朝早く、登校前に森林公園で色と光の小さなポケットをさがす。ミヤマガラスたちも目を覚ましていて、大気を切り裂いているところだ。けさのぼくは、その鳴き声を楽しめない――聞きたくなくはないけれど、その音は氷みたいに冷たい感じで、苦しくなる。上着のジッパーをさらに上へ――明るい青の上着で、このあたりではいちばん鮮やかなもの。足もとの草は湿っていて、湖は波で渦巻き、ほとんど黒に近い。気分が沈む。安らかさを求めてきたのに安心感の果てまではぐれてしまった。降りてくる不気味さ。あわてて引き返し、そんな感覚から遠ざかると、そのうち明るさが訪れる。腕時計を見ると、もう遅刻だ。きょうは本気で学校に行きたくない。でも終業日だし、半日で終わる。
 ぐずぐずしているうち休み時間になり、サッカー場の裏をぶらぶらしてほっと息をつく。ここは学校のナイススポットで、いまは明るいブルーの空が見えて、凍えそうだけれど雲がないからなおさらいい。ブナの木の幹にもたれて銀色の樹皮を背中に、セーターとブレザーを通して感じる。そういえばきょうは、冬至だってことを忘れていた。いや忘れていなかったかも。けさの気味の悪い散歩が関係しているのかもしれない。ぼくはベッドから引っぱり出され、みんなより先に起き出して、鋼のような湖に引き寄せられ、ユール〔冬至の祭り〕を、アルバン・アーサン〔冬至、「冬の光」あるいは「アーサーの光」を意味する〕を祝った。暗い森を歩いていくと、ドルイド僧〔キリスト教以前の古代ケルト族の僧〕たちがヤドリギを採り、集まってユール・ログ〔クリスマスの大薪〕を燃やしたんだ。小麦粉をまぶし、エールをかけ、去年の残りの薪で火をつけて。
 学校から戻ったら、ママがホーリー〔モチノキ〕とツタを集めてきているだろう。常緑樹を。クリスマスツリーも用意されて、ひと部屋を占領し、そこらじゅうマツの葉だらけだ。家にまるごと一本の木があるなんて、わくわくする。いつもなら火を焚くけれど、この新しい家には暖炉がない。暖炉のない冬は初めてで、たったいままでそのことに気づいていなかった。でもぼくはどれだけのあいだ暗闇を受け止めていたかも気づいてなかったわけで、きょうからその影は薄くなりはじめる。ここが節目だ。光がやってきて、家ではキャンドルが灯される――そしてクリスマスへ。きょうは1年でいちばん暗い日かもしれないけれど、いつだって光はある。闇と光。どちらも欠かせない、休息にも、再生にも。
 授業のベルがぼくを空想から引き戻す。コマドリも鐘を鳴らすように真冬の到来を告げる。とまっているのは目の高さにある、コケや地衣類で覆われたブナの枝だ。ぼくが動いてもコマドリは動かず、そのまま鳴きつづけ、学校に引き返すときもさえずりが聞こえるけれど、ほかにも誰か聞こえている人はいるのだろうか。ぼくはいきなり立ち止まり、ふと駆け戻ってブナの木を抱きしめ、この4ヶ月間、ぼくを見守ってくれた年上の人たちに感謝する。いままでの学校生活で最高の4ヶ月だった。

 

 

ダーラ・マカナルティ『自閉症のぼくは書くことで息をする 14歳、ナチュラリストの日記』(辰巳出版、pp.242-244)より。翻訳は近藤隆文。著者のプロフィールには「環境保護活動家」とある。グレタ・トゥーンベリさんのような位置づけでもてはやされているのかなと想像する。

著者は「自閉症ゆえに文章が書けない」と言われていたそうな。どっこいそんなことはなかった。すばらしい文章家だ。わたしも、人によっては「頭が悪い」と評される。しかし、べつの人によっては「賢い」とも評される。

なにができて、なにができないかはその都度、変化する。知性は固定的なものではない。ひとりひとりちがう、可変的なものだ。顕在化するのはそのごく一部。どんな人でも知性的だとわたしは思う。かならず賢いところがある。かならず優れている。病者であれ健常者であれ、赤ちゃんからお年寄りまで、全員漏れなく、かならず。そのつもりでつねに接する。誰も絶対バカにしない。へんな意地がある。知性というより、人の魅力を信じているふしがある。みんな魅力的だと思う、素朴に。

ところで、この本は辰巳出版の「&books」というレーベルから出ている。昨年から立ち上がった海外翻訳レーベルらしい。しらんかった。

 

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