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日記977


 

 一九五六年 クリスマス

 一二月二五日の静かな午前が過ぎて昼食になる、お祝いの日ということで普段よりも御馳走だ。ローベルトは患者たちに混じって舌鼓をうっている。フォーク、スプーン、ナイフの音が、彼には陽気な音楽のように聞こえている。しかし、散策に出かけたい気持ちがむくむくと湧いてくる。暖かい格好をして、雪景色のひろがる澄みわたった光の中へ踏み出す。路は施設を出て薄暗い地下通路をくぐって駅へ続いてゆく、あの友人の到着を幾度となく待った場所だ。遠からず、またいっしょに散策することになるだろう、新年には、天気の良し悪しにかかわらず。 いまや彼はローゼンベルクへ登りたい気分になっている、廃墟があるのだ。あそこへはもう何度かひとりで、あるいは連れ立って、登ったことがある。尾根からは、アルプシュタイン連山への陶然とするような眺望がひらけている。お昼どきはそれはしんとしている。雪、汚れのない雪、見渡すかぎり。かつてこんな言葉で終わる詩を、彼は書きはしなかったろうか?――「雪が降ると、はらりはらりと、ぽろりぽろりと、薔薇が散っていくのを思い出す」とりたててよい詩ではない。でも、それは真実であって、そもそも人間もまた、散ってゆくべきものなのかもしれない――薔薇のように。
 孤独な散策者は冷たい冬の大気を深呼吸する。ほとんど食べることができそうなくらいに、たしかな感触がある。ヘリザウはいまや足下にある。工場、住宅、教会、駅。橅と樅の樹々を抜けて、ショヒャーベルクを登っていく、彼の年齢にしては少々急ぎすぎかもしれない。しかし鼓動がどこかおかしいと感じながらも、先へ上へ進まないではいられない。ローザーヴァルトを抜け、ローゼンベルクの西の頂きのヴァハテネッグへ行き、そこから小さな窪地を経て向こうの丘へ赴こう、と彼は考えている。煙草に火をつけたい気分に襲われる。しかしそれには従わない。楽しみはのちほど、廃墟のそばに立つときのために残しておくことにする。――窪地への下りはかなり急だ。それゆえ内またで、木柵にはつかまらず、一歩一歩注意深く標高八六〇メートルの凹みめざして進んでいく、そこで数分ほど休憩するつもりだ。もう数メートル行けば、地面はまた平坦になる。いまはきっと一時半頃だろう。太陽は血の気のない少女のように蒼白い。誇らかにぎらついてはおらず、柔らかく物憂げでためらうようで、今日はもう愛らしい景色を夜にゆだねたいかのようだ。
 そこで散策者の鼓動が不意に途切れがちになる。めまいがする。おそらくは老年性動脈硬化の兆候だろう、医者にそう言われたことがある。散歩はほどほどにとくぎを刺されたのだ。以前の散策で足の痙攣に苦しんだことが、ふと記憶に蘇る。またあんな痙攣が来るのだろうか? それにしてもああいうのはなんて不快なのだろう、しつこくて、愚かしくて! そのとき――何だ、これは? 彼はだしぬけに仰向けに倒れる、右手を心臓にあて、そして静かになる。死んだように静かに。左腕は急速に冷えていく体の横に伸ばされたままだ。左手はいくぶん爪を立てて握られている、散策者を豹の一跳びさながらに襲ってきた瞬時の激痛を握り潰そうとするかのように。帽子は少し離れた上方に落ちている。頭を軽く傾げた、物言わぬ散歩者は、いまやクリスマスの完璧なる静けさの像と化している。口は開いたままで、清らかな冬の冷気がなお彼の中に流れこんでいくかのようだ。
 そんな彼の姿をほどなく二人の学童が発見する、一五〇メートルも離れていないマンザ―家の農場〈ブルクハルデン〉から、誰が雪の中に横たわっているのか調べに、雪板で滑り降りてきたのだ。父母にクリスマスの挨拶をするために、アッペンツェル犬を連れて、谷間から訪れていた女はこう語った、うちの牧羊犬の今日の落ち着かない様子はそれにしても奇妙だった。大声で吠え続けては、なんとかしてリードを引きちぎって、見知らぬ得体の知れぬものが横たわっている窪地へ駆けていこうとしたのだった。いったいあれはなんだろう? 坊やたち、行って見ておいで!
 雪の窪地に横たわっていた死者は、軽やかに、朗らかに、雪ひらが舞い踊る冬をこよなく愛していた詩人である――静やかな、清らかな、愛にみちた世界を子どものように求めていた真の詩人である。その胸ポケットからは彼に宛てられた三通の手紙と一通の葉書が見つかる。そこに書かれていた宛名は――

 ローベルト・ヴァルザー

 

 

 

カール・ゼーリヒ『ローベルト・ヴァルザーとの散策』(新本史斉 訳、白水社、pp.201-204)より。事実にもとづいて創作されたもの。雪の中、この詩人が仰向けに倒れている有名な写真がある。惚れ惚れするほど、きれいに倒れている。理想の死に方だと思う。 


“ヴァルザーは長く孤独な散歩を好んだ。1956年のクリスマスの朝、ヴァルザーは雪原を散歩している途上、心臓発作で死に、ほどなくして発見された。”
ローベルト・ヴァルザー - Wikipedia

 

12月25日といえばキリストの降誕、その次に思い出されるのはローベルト・ヴァルザーという作家の命日なのでした。長く孤独な散歩。友人から聞いた話では、詩人は他者を必要としないのだという。わたしも長いこと歩く。ひたすらに。ひとり。今日は午後から、ひさしぶりに新宿へ行った。Podcastで芸人のプチ鹿島さんが「人は人にしか興味がない」と話すのを聞きながら、有馬記念で盛り上がる群衆を横切って写真展を見に。人間のいない写真のなかにも、結局は人間を見ている。どこにでも人間を幻視したがる人間の性は確かにある。予定よりギャラリーに長居してしまう。得難い時間。気持ち悪いファンの、益体もない話にお付き合い頂き、ありがたく思う。

午前中は施設の祖母と面会。「孤独だと自由がない」「自由がないと孤独」という話を繰り返し聞く。孤独と不自由はセットらしい。祖母の定義によると、自由なとき人は孤独ではない。ヴァルザーは散歩中、きっと自由だった。仮にそうだとすると、孤独に見えてじつは孤独ではなかったのかもしれない。他者はいなくとも、そこには彼の世界があった。軽やかに、朗らかに、雪ひらが舞い踊る冬をこよなく愛していた詩人の、静やかな、清らかな、愛にみちた世界を子どものように求めていた真の詩人の――。

「人知れず」でも、自分という存在を世界の内にあらしめることができたなら、孤独は解消されるだろうか。ただひとりであれ、「ここに我あり」と思えたなら。それができる人種を“詩人”と呼ぶのか。わからない。 

 

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