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日記978

 

12.26(火) 1. 萩原延寿

        次に基金で呼ぶ人

        Susan Sontag
        Eliszabeth Hardwick(文明評論家、故 Lowell 夫人、NRB の編集顧問)
        Meyer Schapiro(Columbia の芸術史、芸術思想史、元 Marxist)
        Carl Shorsky(Princeton、Wien の都市の発達と芸術の思想史、ドイツの社民、研究の処女作あり)
        藤田氏よいものを書いた、感激した。 [「書目撰定理由――松蔭の精神史的意味に関する一考察」か?]あれについて “思想の言葉” に感想を書く。 (いつになるか分らぬが)
       ―丸山先生から呼びや[屋]と云われた。


小尾俊人『小尾俊人日誌 1965-1985』(中央公論新社、p.211)より。1978年12月26日。みすず書房の創業者、小尾俊人の日誌。ってことは、みすずの本かな? と思いきや中央公論新社から出ている。装幀はちょっとみすずっぽい。

丸山真男と藤田省三に関する記述を中心にまとめられている。とにかく淡々と。限られた人にしか読み通せない代物だろう。だいたい日記や日誌などの雑記録は受容者の興味関心が試される。ぶっきらぼうで、まったく不親切な読み物だから。教えてもらうのではなく、見出さないといけない。自分のなかのつながりを耕作するように。

巻末にある、市村弘正と加藤敬事の解説対談が参考になる。へーと思う。へー。しょうじき、そんなに関心が持てない。しかし、関心がなくても粛々と読む。それがたいせつ。いちおう、なんでも通り過ぎておく。ただ歩くこと。

加藤氏のさいごの発言は、自分の考える「自由」のイメージにそぐうものだった。

 

“丸山さんがあそこまで率直に話した相手は、小尾俊人だけでしょう。小尾さんも丸山さんの前で最も自由になれると言ってましたから、お互いにそうだったのかもしれません。”(p.303)


この人の前でなら、自由になれる。自由とはつねに、なにかの前における自由なのだと思う。ある関係、ある制約のなかでの自由。言うまでもないか……。無際限な自由なんてものはない。自由のためには制約が必要。ゆえに、ただのひとりでは自由になれない。

制約は人でなくてもいい。犬といるとき自由になれたり、猫といるとき自由になれたりもする。ラップを聴いているときがもっとも自由だったり、楽器を弾いているときがもっとも自由だったり。小説を書いているときが自由だったり、写真を撮っているときが自由だったり。

わたしたちは、みずからの行使しうるかぎりの自由を、絶えずなにかに託している。自由とは、託す/託されるものだ。自由を感じるとき人は、孤独ではない。

相手が課してくる制約を引き受けたぶんだけ自由になれる、みたいな逆説があるように思う。丸山真男と小尾俊人は、お互いの不自由を知悉し合っていたからこそ、「最も自由になれる」関係が築けたのではないか。不自由を請け負うところからしか、自由は始まらない。

楽器も、物書きも、写真も、なんでもそうだけれど、そこにおける不自由を請け負わずして始めることはできない。まずはそのジャンルに特有の不自由を身に負い、練習するうち、すこしずつ自由を得て、より多くの不自由を知ることができる。知り得た不自由をふたたび負うことで、またすこし自由になり、さらに多くの不自由を知る。といった、練磨のサイクルを思い描く。不自由と自由のいたちごっこ。

昨日、石倉優という人の写真展を観た。一時期わたしは、この人の表現に恋をしていた。そんな気持ち悪い話を在廊中の優さんにすると、「どこか似てるんじゃないか」とおっしゃっていただいた。なにが似ているのか。たぶん、生きる上で引き受けた不自由のかたちがちょっとだけ似ている。自分と似たような不自由を、制約を、もがきながら自由に変える、変えようとする姿が眩しかったのだと思う。人との出会いもきっと、不自由の形式から始まる。

ところで、宮田昇『小尾俊人の戦後 みすず書房出発の頃』(みすず書房)には、小尾俊人の日記が収録されている。1951年のもの。小尾氏は29歳。こちらは日誌とちがい、しっかりとした文章で、端々に日々の懊悩が垣間見える。自分の年齢と近いので、へんに身近な感じもする。


“理解されても愛されることがないという悲しさ。
理解と愛とが予定調和しないこと。理解する人は愛さず、愛する人は理解に遠いということ。何かパラドキシカルな人間の存在。
しかし悲しみと苦しみが生んだものが最も美しい。なぜならその生活を超えようとのひたむきな努力が最も人間らしいものだからである。書くことは救いとなる。客観化すると、苦悩の主体が和らぐ。”(p.202)


わたしが日記に求める要素が詰まっている……。ごく個人的な、とりとめのない感興。たしかに、愛と理解は水と油のような関係かもしれない。医者は病を理解して治療する。しかし、感情面のケアはあまりしない。近しい人は同情してくれるが、適切な治療はできない。こうした分業の構造と似た話かと思う。

理解する人は愛さず、愛する人は理解に遠い。犬や猫は愛くるしいけれど、あいつらほど理解に遠い存在はいない。「人」から逸れるが、このたとえがいちばんわかりやすいか。理解者は往々にして、冷っこい。それは静的な引きの視点だから。

小尾氏の日記には透徹した真率さがある。公開を前提としない日記は、ともすれば無遠慮になりがちだけれど、抑制が効いて凛としている。紳士的な大正生まれの青年が懊悩するさまを1年分、堪能できる。なんとなく図書館で手にして、じっくり読むつもりはなかったけれど、熟読してしまった。

 

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