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日記983


 

 

十二月三十一日 火曜日 十二時

 やがて、十九の年も過ぎ去ってゆく。
 お母さんも昨夜から、勤め口より帰って来られた。
 きょうは一日中、大晦の買い出しに、大掃除、煮〆の仕度に過ごす。明朝の元旦は、ささやかながら、雑煮が祝えるであろう。街は、いかにも暮れの感じ。デパートなんかの混雑すごく、盛り場は人の波のよし。
 父が亡くなって一年。この一年は実に多彩な年といいつべきであった。けれど静かに考えてみると、もちろん、経済的にも種々の苦労はあったけれど、学生生活としては、一番この年が楽しく有意義であったといえよう。文学班としても活躍し、成績でも首席が取れ、そして学校生活は文芸会あり音楽会あり、短歌会、文学班雑誌発行、とつづいて楽しいことが続々とあった。こんなに充実したことは、かつてなかったといえるけれど――しかし私はこの一年、どんな所が偉くなったか、と考えると、さして偉くもないと思う。心中甚だ快くない。
 気立てのやさしい女の子になろうと思ったのに、それもなれず、弟や妹に当り散らしているし、哲学を勉強したいと思ったのに、それもせず遊んでばかり。一体これで、この無教養さで、小説家なんてむつかしいものになれるかしらと心配でならない。来年からは、きっと、しっかりした勉強をしたいと思う。
 今、小説をすこし書きかけてるけれど、どうも思う様に筆がすすまない。題未定。傲慢、無関心、冷淡な一少女が、罹災や戦争の影響のおかげで人間的な精神に目覚めてゆく経路と、それに対照して偏見を抜けきれない女親の心境というものなど、描いてみたいなと思っているけれど、筆はなかなか思う様にうごいてくれない。
 来年も、勉強して小説を書こう。私はもう、この道しか、進むべき道はない。そう、信じている。来年もまた、幸福な精神生活が送れますように。私は二十歳になる。とうとう、少女の域をこえて出ようとする。さらば、十九の幸多かりし年よ。
 あらゆる真実と誠意と純情をこめて、私は果てしれぬあこがれへ、心を飛揚させる。何かしら漠々とした、とりとめのない楽しさが待っていそうな翌、二十歳の年……。
 二月には試験があるだろう。三月二十日前後には卒業があるだろう。そして私はどこかへ勤める。そして――そして私の運命はどうなるのかしら。私を引き回すほどの人が果して――全ての少女の場合におけるように――出現してくるのだろうか。ある意味で私は「ゆみ子」(※前出の同人誌「青い壺」に田辺が寄せた同名タイトルの小説に登場する)に近い。
 私は永遠に「優しい気立ての女性」になろうとする努力を捨てないだろうと思う。ある人はどう思うだろう。しかし私は「やさしいこと」は究極の勝利だと思う。
 さあ、もう寝よう。
 神さま、明年もしあわせを下さいませ。
 おやすみなさい。

 

 

『田辺聖子 十八歳の日の記録』(文藝春秋、pp.158-159)より。1946年(昭和21年)12月31日。「若さ」を感じる。この日記から読み取れる「若さ」とはなにか。それはたぶん、「振れやすさ」と言い換えることができる。かなしみから喜びへ、不安から希望へ、感情が振れる。陰から陽へ、陽から陰へ。あるいは、「これしかない」と決めた道行きから、どうなるかわからない茫漠たる未来へ。揺れる。綯い交ぜの心が漂う。短い間隔で何度も。その摩擦がことばの熱源となってつたわる。

「振れやすさ(=若さ)」に年齢は関係ない。いくつになっても、瑞々しく生っぽい感情の発露はありうる。「未熟さ」はいつなんどきも、誰の心にもくすぶっている。だんだん誤魔化すのがうまくなるだけだ。高齢になれば、ふたたび誤魔化しきれない感情の古層があらわになる。「若さ」とは、「古さ」でもある。死が最新の出来事であり、誕生はつねに古い。滅びは未来に位置し、出生は過去に位置づけられる。

きょう、近所の公園でちいさなこどもたちが集い「スキップスキップランランラン」と楽しそうに歌いながらスキップしていた。それを見てなんか泣きそうになった。とても古い光景。古代の壁画に描いてありそうなくらい。恐ろしいほどの無邪気さに、頭がおかしくなりそうだった。しかし、泣かずに誤魔化して通り過ぎる。いい大人だから。

誤魔化しつつもやはり、どうでもいい出来事にいちいち振れる感情はある。ないことにはできない。世の中そんな感動的にできちゃいないが、振れるときは振れる。せっかくなので、振っといたほうがいいのかもしれない。運がよければホームランが打てるやも。

「今日の日記」を毎日載せる無駄チャレンジはこれでおしまい。さいごに、いい日記が引けた。「やさしいこと」は究極の勝利、と田辺は書く。「やさしさ」と「勝利」が結びつく発想はなかなかない。「勝利」というと一般に、人を押しのけたり潰したりするイメージがある。「やさしさ」による勝利は、それとはちがうのだろう。

「マネーの虎」に出演していた受験生の中島隆誠さんが天才の定義を問われ、「やさしさ」と即答していたことを思い出す。彼によると、天才はやさしいらしい。勝利とつなげる発想にも近いのではないか。ちなみに、「マネーの虎」についてはこの回しか知らない。Covid-19に感染して寝ていたときに、暇でぼーっと見ていた。

なんでもいいけど、やさしくありたいとは思う。自分の毒々しさに自覚的でありたい。やさしいことは、清いことではない。

この12月は体調が思わしくなかった。回復傾向にはあるが、いまも咳がつづく。呼吸が浅い。人前では気丈にふるまうものの、ひとりになると一気にダウンしてしまう。大晦日は、だいたい寝ていた。明けても三が日まるまる寝る予定。


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