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日記984


 

1月6日(金)

空を飛ぶカラスが妙に美しく見えた。ときどき、なんでもないものが異様なほど新鮮にうつる。余命宣告された人かよ、と思う。あるいは、きのう生まれた人か。最期に見るような、はじめて見るような。始点と終点の結節点が「いま」なのか。よくわからない。「滅びは未来に位置し、出生は過去に位置づけられる」と至極あたりまえのことを前回書いた。さらにあたりまえを加えるなら、どちらも未知なる時である。生と死は「未知」を介してぐるっと接続する。

東宏治『思考の手帖 ぼくの方法の始まりとしての手帖』(鳥影社)の「まえがき」には、「世界をやがて死んでゆくひとのように見ること」と「世界を初めて見るひとのように見ること」は同じことだと書かれている。東氏は高校生のころに父親を亡くした、その経験からひとつの「方法」を見出したのだとか。

 

「なんだ、死というものは、こんなものだったのか。こんな風にごく身近に、明日にも自分の身のうえに起こる出来事なのか」という、ひどく明晰な自覚と、それまで日常の慣習と習慣のヴェールを通してしか見ていなかった現実(というか、眼に見えていてもほとんど見ていなかった現実)が、裸の、あるがままの、あっけないほど何の修飾も価値付もない姿で見えてくるという経験。この自覚と経験とに何度も何度ももどってくること、そしてそうすることで身についてくるある視力のようなもの。このいわば末期の眼を保持しつづけることが、十年、二十年のあいだぼくが実践した方法のすべてであったのだ。(pp.9-10)

 

ひとつの終末へ戻ることが「方法の始まり」だった。「末期の眼」はすなわち、原初の眼でもあるのだろう。そういえば、正月に読んだ本のなかで「死」について綴られているものがもうひとつあった。下西風澄『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(文藝春秋)の、こちらは「エピローグ――あとがきにかえて」。

 

 僕は二十歳くらいの頃、小さな絶望のさなかにいた。心の過剰さに曝されて、死の存在が心の周りを漂っていた。周囲の誰にも心を打ち明けることができずに、小さな宇宙のなかで、独り神様を恨んでいた。いま振り返ってみればそれは、誰にでもある青年期のもたらす憂鬱と、いくつかの不運が重なりあったものだったのだろうと思う。当時の僕はそれを、なにか不意に訪れた悲劇のようなものだと感じていたし、しかも同時にそれは自分の犯した「罪」のようなものだという観念に取り憑かれ、なにかを書くことでその罪から救済されるのではないかと妄想しながら人生を過ごしていた。そのとき、僕を繋ぎとめてくれたのもまた哲学や文学の思考と言葉たちだった。(p.453)

 

下西氏の経験も、かたちはちがえど「死」が知性を賦活するもとになっている。若いころ、「死」を過剰に意識する経験。そこで、すがるものがある。わたし自身も、「死」の観念に憑かれがちだ。三十路過ぎても、なお。しかし、とくに知性は賦活されない。おかしいな。ただ、すがるものは中途半端に探しつづけている。

思えば、「死」から始まる知性のありように強く惹かれてきた。去年、久しぶりに買い漁った漫画『チ。―地球の運動について―』(小学館)の作者である魚豊氏も、学生時代のタナトフォビア(死恐怖症)について語っていた。『チ。』の内容からも、「死」へのオブセッションが感じとれる。

あるいは典型的な書き手で、中島義道をよく読んでいた時期がある。はじめて手にしたのは、たしか高校2年か3年のころ。「どうせ死んでしまう」と中島は書く。自分と似たような感覚を、いい感じの抽象度で表現できる人に勇気づけられる。死を思うと、ひとりであることを強烈に自覚させられる。それが言語によって慰撫されるって、ふしぎ。

「ひとりであることを強烈に自覚」と書いて、思い出した。小学生のころ、ウンコをする人間は自分だけではないか? と強迫的に思い込んでいたときがある。親に何度も確認したことをおぼえている。「ウンコする?」と。ひとりではないことを知りたかった。ちなみに、金正日は生涯ウンコをしなかったらしい。親が金正日だったら、わたしはウンコをするたび孤独に苛まれていたことだろう。


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