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日記985


1月7日(土)

写真の事後性、ということを思う。考えながら撮っていない。つねに作業が先に立つ。まずやってしまう。「こういうものを撮ろう」と思って撮るのではない。文字通り、「あっ」という間に撮れる。あとで見返して、なんだこれ? と思う。時差を感じる。認知科学の用語でいえば、ポストディクションを自覚せざるをえない。ふりかえって、再解釈する。何度も、何度も。

「写真はセレクションが大事」という話を石倉優さんから聞きかじった。元は誰の発言とおっしゃっていたか……とにかく又聞き。もうすこし抽象化すると、「事後が大事」と言い換えることもできるだろう。事前の構えはそこそこでいい。できちゃったものをどうするか。計画性の崩れがおもしろいと感じる。計画をしても、かならず事前の意識とはズレたものがうつる。カメラの認知と人間の認知はそもそもまったくちがう。その差をどうするか。

Place Mでの優さんの展示は、枯れ藪をうつしたもので単純に画として美しく迫力があった。その怪しさというか、「写らなさ」みたいなところはすごく魅力的だけれど、わたしがちょっと興奮したのは展示を観に来ていた男性のひとりがふと指摘した三脚のうつりこみ。藪の一枚に、よーく見ると三脚が入っていて、それはほんらい写すはずのものではなかったという。ウォーリーを探すように、よーく見ないとわからない。

渺茫たる藪のなかにあった、ひとつだけ鮮明な人工物。藪というブラインドのなかで、確かに写るもの。ミスかもしれないが、帰り道に反芻して「写真ってそういうものだよなあ……」というへんな感慨にふけっていた。嘘の一種でありながら、嘘をつき通せない偶然がまれに写る。写真機は何も知らないから。写真家は、写真機という一個の無知を携えて歩く。

写ったもののなかには、「知っている」と「知らない」のせめぎあいがつねにある。というか、あらゆる視覚体験はそのせめぎあいを孕んでいる。わたしたちは、既知と未知のコントラストを無意識につけて「見る」という事を為す。大写しの藪はどちらかというとあまり見ない。未知寄りの体験で、そこに小さな三脚の既知がうつりこんでいた。人の痕跡。そのちょっとしたコントラストに自分は興奮をおぼえたのだと思う。作家からすれば事態は逆で、三脚が未知だった。セレクトの目をすり抜けた作業の名残。

制作者に対してはかなり失礼な話だけれど、わたしは何を見ても意識の網の目からすり抜けるものに焦点を置いてしまう。やり切れなさや、失敗や、間違いの類。あぶれたもの。本を読んでいても、誤植を見つけるとへんにうれしい。きれいに整序された文字列のなか、ひょっこり出現する瑕疵。数ある人の目をすり抜け、正されることなく、生き残った誤り。

そこがおそらく、わたしの実存の在処なのだろう。「正されることなく、生き残った誤り」をひとつの価値として、たいせつに抱えている気がする。ほんらいならば、なかったはずの何か。自分のことを、ほんとうであればもう生きていないはずの人間だと思っているふしがある。正されたら、死んでしまう。亡霊のように長らえている。

これは「セレクションが大事」に対する反論ではない。セレクションは依然として大事。それがなければ「生き残った誤り」も見出されないのだから。事後に為されるセレクションの、さらに事後がある。そういう話かな……。加えて「事後性」は、ことば(とくに書記言語)の問題でもある。写真にことばをどう加えるか、という論点にも接続できるお話だと思う。

余談ながら、わたしはもともと石倉優という人を「写真の人」として認識してはいなかった。「文章の人」として画面越しに出会った。それが最初で、自分でも意味不明なほど熱心にこの人のテクストを読んでいた。のちに、たまたま写真家としての優さんを知る。写真のほうは、ぜんぜんチェックしていなかった。

にもかかわらず、僭越ながら自分の撮る写真と雰囲気が似ていた。文章が似ているとすれば、「読んでりゃ似るだろう」と理解できる。しかし、写真は真似る余地がなかったのに、なんか似ている。「人生ってふしぎだな~」と暢気に感じる。あるいは、言語性と写真の感性はリンクしているのか? 写真は言語のように構造化されている? 

前にも書いた(気がする)が、一時期のわたしはこの人の文章に恋をしていた。恋とはたぶん、「知っているから好き」と「知らないから好き」が両立するような状態。同質な魅力と異質な魅力がスパークしてギャーみたいな感覚だと思う。

知的好奇心の発生源もこれと似ている。既知と未知のいいバランスがリーダビリティを担保する。わかりきっていてはつまらないし、わからなくてもつまらない。わかるようなわからないような隔靴掻痒に「知りたい」が牽引される。

ようするに、ミルクボーイの漫才の構造である。

 



サイゼか、サイゼではないのか。「わかる」と「わからない」をわかりやすく往還する。ハマると癖になってしまう。わかったと思いきや、わからない。わからないと思いきや、わかる。この激しい振動がひとりの心の内で起きるとき、それは恋と呼ばれるものになるのではないかしら。しらんけど。

恋する人は「これはワシやないかい/ほなワシとちがうか……」を繰り返す波にさらわれて、自己の位置づけが徐々にあやふやになってしまう。あなたはワシか、ワシではないのか。ワシではないに決まっているのだけれど、そうして自己同一性が揺さぶられることで、人は他なるものへと変化できる。恋と学びの原動力は似ている。

ミルクボーイの漫才は、たとえば「サイゼ」であればサイゼの性質を一考しないとつくれない。サイゼとは何か、サイゼではないとは何かをめぐるやりとり。見ながらだんだん、「知りたい」という好奇心が高揚してゆく。次を読みたくなる構造だと思う。笑えるかどうかはべつとして、興味深い形式。

 

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