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日記986

 

1月10日(火)

いまに始まったことではないが、なにをしゃべっても書いてもぜんぜんちがう気がする。がんばってなんか言おうとしたときは、とくにちがう気がする。がんばったのに……。もう最初からボケに徹するしか道は残されていないのかもしれない。経験上、どうでもいい感じで適当に発信するとわりとうまくいく。まじめにやってもいいことがない。まじめにやったのに……。考えなしに事に当たるほうが自他ともに満足いくケースが多い。

つまりこう……ハッとしてグッときてパッと目覚める感じ。長嶋茂雄みたいなしゃべりを意識しよう。文章も擬音語・擬態語を多用し、パーッといきたい。「今日はシュッと起きてバタバタやってサッと寝た」といった、中身のない記述がいい。めんどくさくない。どうでもよくなりたい。これは積年の願い。

「間違うつもり・嘘をつくつもり」で話す。書く。「正しいつもり・ほんとうのつもり」より、そっちのほうが自分の生理に沿っている。

いずれにしろ「つもり」なのだから、嘘が悪いとは思わない。いや、ちがう。嘘は悪い。悪を為すつもりで、そこから始めたほうが行動しやすい。善を為すつもりだと行動しづらい。薄氷を踏むような思いがする。悪を為すなら、最初から薄氷踏み放題プランで自分ふくめ誰が溺れたってかまいやしない。まったく悪いなあ。そんなに悪いと、さすがに悪いか……。

そうだ。徒歩で、赤信号を待つとき思うことがある。車が通らず、余裕で信号無視できる場合でも、赤信号の正面からだと渡りづらい。ちょっとずれた、横断歩道の白線が敷かれていない位置からだと、スイスイ無視できる。この心理的な機微は非常に示唆的だ。正面に立つと、動きづらい。ちょっと斜交いに立つと、自由が利く。

わざわざ正面から悪を為す必要はなかった。というか、それってじつは「正しいつもり」と変わらない。たとえば相模原障害者施設殺傷事件の植松聖氏は、「正しいつもり」で事を起こしたのだろうと推察する。真っ向から為される悪の裏には、正義がある。

急に重い事例を出してしまったけれど、横断歩道の場合でも真っ向から赤信号を破るには「俺は正しい!」と自分に言い聞かせる必要があるのではないか。ちょっとした決意がいるような。斜めからなら、悪い自覚がある。情状酌量の余地がある。せこい話だが、あらゆる「悪気」はせこいもんだろう。

悪気をもって、斜めから自由を利かせる。せこい技を使う。ずる賢くやる。今年の抱負にしときます。相手の正面に立たない。縛られちゃうから。「悪意」ではない。「悪意」は正面っぽい。「悪気」。「意」ではなく、「気」。ぼやっとした気分を見失ってはいけない。グレーゾーンを確保する。

冒頭に書いたのはつまり、「意」から入るより、ぼやっと「気」から入るほうがうまくいきやすいってことかな。この記事も「気がする」から始まる。その調子。でも、まだまだ脱力が足りない。内容はそんなに詰めなくていい。ポエジーを、もっと。

「間違うつもり・嘘をつくつもり」は、わたしのなかで「詩をつくるつもり」に近いのかもしれない。

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