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日記987

 

シロナガスクジラかな。twitterのエラー画面を思い出す。あるいは、韓国ドラマのウ・ヨンウ弁護士は天才肌。さいきんの出来事でクジラといえば、大阪の淀川にあらわれた「淀ちゃん」か。あれはマッコウクジラだった。「さいきん」といっても、すでに懐かしい気がする。ことしの年末にはもう、遙か遠い昔の出来事だろう。「そんな時代もあったね」と薄目で回想されるにちがいない。


年末Covid-19に感染して、そこから調子が戻るまで1ヶ月は要した。いちばんやられたのは喉で、まだ微かに違和感がある。戻ってないじゃん。いや、他人には悟られない。その意味で「戻った」としておく。ただ、たまに咳をすると血の味がこみ上げてくる。これも微かに。気管支炎になりやすいみたいだ。

この冬はできるだけ静かに過ごしたい。可能なら加湿と暖房の効いた部屋で春まで寝ていたい。本でも読みながら。しかし、そんなわけにもいかない。

後遺症として「ブレイン・フォグ」と呼ばれるモヤモヤ感が取り沙汰されるが、それはとくになかった。それとも、頭の回転がつねに鈍いために気がつかないだけか。倦怠感もない。つねに怠いせいで気がつかないだけか……。あとを引く顕著な症状は喉の違和感だけ。

先週、年末に顔を出す予定だった知り合いのおじいさん宅へ、招かれて行った。70代。脳梗塞で2ヶ月くらい入院していた人。退院後、はじめてお会いする。入院前よりお元気そうでよかった。相変わらず、青山繁晴のYouTube動画をすすめてくる。あと「チャンネル桜」。そのお変わりなさにひと安心。

倒れたからすこしは節制しているのかと思えば、それもない。変わらず酒を飲み、煙草をふかす。酒もすすめられたので、自分でつくる。お湯をなみなみと注いで薄めた蕎麦焼酎、雲海。「節制しないんですか?」と問うたら、「俺がそんなことするわけない!」と怒られてしまった。「すみません、健康志向で……」と言って笑う。

世間話の要領で「健康」はなんとなく気にするけれど、不健康を擁護したい思いもある。「健康」ということばの裏には優生思想の影がちらつく。不健康の擁護とは、生命一般とは相反する個人の生の擁護である。ちいさな物語の擁護ともいえる。「俺がそんなことするわけない!」という、「俺」の人生への敬意をもつこと。

なんだかんだ数時間過ごして、「ほら、交通費」とお小遣いをもらう。ありがたい。帰り際に、ふと「夢はあるか?」と尋ねられ、口ごもった。数秒の間を置いて、「ないっすね」とこたえる。夢も希望もない。「がんばれよ」と尻を叩かれてお別れ。文字通りバシバシ叩かれる。ああホモソーシャル。でも、なんとなくうれしい。自分のなかにもホモソな感性はある。

いちど倒れて弱っているのかと思いきや、真逆のようすだった。強くなっている。入院して、なにか吹っ切れたのかもしれない。「強がっている」ともとれる。なんでもいいけど、元気でなにより。人情に厚い保守主義者そのものだと思う。発言の端々に差別的なもの(ミソジニー、嫌韓、嫌中など)は感じるけれど、わたしは議論をしたいわけではない。「あなた」がたいせつだ。抽象的な「正しさ」より、具体的な目の前のひとときを優先する。

何日か前に、韓国映画の『モガディシュ』を観た。限界状況で理念を放棄し、北朝鮮と南朝鮮の大使館員たちが助け合う。そういう映画。敵対者同士がリスクを賭して一時的に仲間になる展開がむかしから好きだ。悟空とベジータが手を組むような、ルパンと銭形が手を組むような。たいてい、やむを得ない限界状況でそんな事態になる。

わたしたちは誰でも、潜在的に敵対者だと思う。どんなに関係が良好でも。あまりに殺伐とした人間観かもしれない。しかし、そう思っている。それでも、生きるためには助け合うしかない。だから生存のために、一時的に手を組む。どんな人間とでも。「致し方なさ」のもとでなら、つながれる。「仕方ない」というワイルドカードを駆使して小狡く生きている。いつも限界なのだ。

人生、「しょうがない」の連続ではないか。それしかない、とさえ感じる。朝早く、寒いなか起き上がるところからもう、しょうがない。行かなくちゃ。「今日もしょうがないことをするぞ!」と気合いを入れて1日を始める。主体性があるんだかないんだかわからない気合い。夢も希望もない。できるなら、なにもせずに済めばありがたい。でも、まーしょうがない。




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