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日記988


 

人生、「しょうがない」の連続ではないか。と、ひとつ前の記事に書いた。その数日後、図書館で借りた『ぼけと利他』(ミシマ社)という本を読んで驚いた。「仕方ない」の使い方が自分の実感とよく符合する。語り口の方向性を示してもらえたようで、うれしくなった。

『ぼけと利他』は、福岡にある福祉施設「よりあい」代表の村瀨孝生と、美学者で「体」に関する著書が多数ある伊藤亜紗との往復書簡。この本のなかで、「介護は仕方なく始まっていく」と村瀨氏は書いている。

 

 お年寄りに関わって感じるのは、さんざん抗って、葛藤し、万策尽きて、仕方なく自分の体を他者に委ねる(多くのお年寄りは大なり小なり、そのようなプロセスを経ていると思います)。
 介護者もまた、喜んで介護する人はいないのではないか。できなくなっていく人を前に手を貸さざるをえなくなる。手を貸して実感します。自分の無力さを。介護は両者にとって仕方なく始まっていくものと感じています。しかし「仕方なさ」を悲観的にとらえていません。むしろ、救いがあると思うのです。(p.29)

 

「無力」から始まる共同性がある。「ともに負ける」ということばも印象的だった。前の記事で例に出した韓国映画の『モガディシュ』もまた、「さんざん抗って、葛藤し、万策尽きて、仕方なく」北朝鮮と南朝鮮の大使館員たちが助け合う。敵対者同士が手を組む展開ではたいてい、その前段階に強い葛藤が描かれる。さんざん迷った挙げ句、「抗い」を一時的に保留する。そこで生じる感情の機微は、村瀨氏の「仕方なさ」とも通じるものがあると思う。 


 

 

この動画のなかで村瀨氏は、「仕方ない」っていうのはある意味で全面肯定なんですよね、とおっしゃっている。わたしも僭越ながら、実感をもってそう思う。「全面肯定」とはいえ、肯定する主体が明確に存在するわけではない。そんなことはしたくない。しかし、そうとばかりも言っていられない。抗いや葛藤を経るなかで、なにかの拍子に訪れる。そんな「全面肯定」だと思う。「する」でも「される」でもなく、主体の裂け目から、拍子をともなってやってくる。ぽーんと投げ出されるように。

介助をする中での自意識の変化を、村瀨氏はこのように表現する。

 

 互いの「抗い」をケアし合う中で自意識は変化するのかもしれません。介助を必要とする「わたし」と介助する「わたし」。二人称の「わたし」が生まれる。ときには一人称の「わたしたち」が孕まれる。(p.80)


「わたし」が二人称になったり、「わたしたち」が一人称になったり……。おそらく、「わたし/あなた」とキッパリ分けた時点から「抗い」は生じているのだろう(あなたとは違うんです!)。ケアとはつねに、「抗い」のケアなのだ。そして「抗い」というやつは、分類好きな人間の意識の標準仕様なのではないか。

その「抗い」が、うっかり消えるときがある。うっかりする。『ぼけと利他』のなかでは「ぼんやりする」というワードが何度か出てくる。うっかり、ぼんやり。そうした意識の間隙に、ふと入り込む自由や肯定がある。沈黙のなかを天使が通るように。

抗ううちに、心がすこしずつふやけていく。歳をとると身も心もたぶん、シワシワにふやける。輪郭があやふやになる。そうやって溶けるように、いろいろなものが漏れ出てしまう。お年寄りではなくとも、疲弊するとふやける。ついうっかり、ぼんやり自他の境界を踏み越えるときがある。体が勝手に動く。

「仕方ない」という感覚のベースには、まず意識の「抗い」がある。抗うプロセスの果てに、“Yes”でも“No”でもない場所が浮かび上がる。受け入れることも、断ることもない。どちらでもなく、「仕方ない」。判断できない境域を発見する。心臓の鼓動に改めて気がつくように。血液の循環は「はい」も「いいえ」もなく始まっている。端的な、その事実のうえで人々は生きる。ただの鼓動、ただの肉塊、田原俊彦を鉄アレイで殴り続けると死ぬ、そんな「意味のキワ」がわたし念頭にはつねにある。さんざん抗って、終には丸裸の体だけがあぶり出される感じ……。

なぜ生きているの? と問われたら、第一に「仕方なく」と答える。『異邦人』のムルソーが殺人の動機について「太陽が眩しかったから」と述べたような、あっけらかんとした感覚と近い。たしか『ぼけと利他』にもムルソーのことばが共感的に引かれていた。伊藤氏の書簡だったと思う。

村瀨氏は介護の経験を通して、いろいろと考え方が変化したという。比較にならないけれど、わたしも同居していた祖母のぼけが深まっていく過程を間近で見ていて、ずいぶん人間の観方が変わった。いい経験をさせてもらったと思う。その経験があるから、村瀨氏のことばが実感をともなってよくわかる。「老人介護はタイミングがすべて」(p.157)なんか、ほんとうにその通り。

ただ、ともに同居していた両親の思考には変化がなかった。「正常/異常」を切り離して考えているせいだろう。安全域と危険域を明確に仕分け、安全域に立とうとする。その気持ちも、不安の処理の仕方としてわかる。そりゃ不安だよ。でも、わたしの考え方はちがう。人間一般の有機的なつながりを見たい。我が身をふりかえってもタイミングによって感情が左右される比重は意外と大きいな、とか。親との思考様式の差が鮮明になったことも、介護を通したひとつの発見だった。 


 当事者が直面しているのは、「正」「誤」でも「正常」「異常」でもない、「わたし」が生き生きと感じていることなのです。(p.195)

 

この村瀨氏のことばに、心の底からうなずく。と同時に、数年前の出来事が脳裏をよぎる。「どんだけボケた話をしていても、祖母はその世界を生きているのだ」と親に説明したところ、ぜんぜん伝わらなかった。「こんなに伝わらないものか」と思い知らされ、おもしろくなった記憶がある。

わたしの世界ではありえないことでも、あなたの世界ではありえる。逆もまた然り。非常にシンプルなこの感覚がわかっていただけない。つまり、「孤独」という概念がわからないのかもしれない。あるいは、「独在性」というか。

自分だけに見える幽霊がいて、そいつを誰とも共有できない。はっきりと見えるのに、ぜんぜんうまく伝えられない。たとえばそんな孤独について思いを馳せてほしい。ヒトの感覚とか認識とかって、基本はそのようなものだと思う。自分だけの幽霊とはすなわち、私自身のことだ。みながバラバラに感覚し、それを直接は伝えられないまま死ぬ。あまりに寂しい人間観かな……。

とはいえ、わたしはそれを悲観的にとらえてはいない。孤独のほうがおもしろい。裏を返せば、誰もが知られざる、驚くべき世界観を有しているということだ。だいぶ前にSNSのnoteで読んだ、伊藤亜紗のインタビューを思い出す。足し算に関する学生のエピソードが印象的だった。

 

前に、「6+8が14であることが納得できません」と言ってきた学生がいました。「6も8も、0~9の中では大きい数字なのに、それを足すと『14』という、10~20の中では小さい数になってしまうことが、どうも納得いきません」と。とても不思議な感性だと思いませんか。

こんなこと、たぶん数学の先生には言えないと思うんですよね。でも、わたしならこういう話を聞いてくれるかも、と思ってくれたんでしょう。

美学者・伊藤亜紗が考える「偶然の価値」|Torus (トーラス)by ABEJA|note

 

こんな話が無類におもしろい。人によっては、ただただ困惑するだろう。まさに無類だから。「そんなこと言われても困る」と。わたしもたぶん困る。でも、それ以上におもしろい。ここには、その人の存在の感触がある。知性の手触りがある。「6+8=14」で式は過不足なく完結する。そのはずが、そこに不足を見出してしまう人間のままならない感受性がある。こんな話を聞かせてもらったら、宝物のような打ち明け話としていつまでも記憶に残るだろう。

「人の脳の数だけ世界がある」と、小説家の村田沙耶香はエッセイ集『となりの脳世界』(朝日新聞出版)の「まえがき」に書いている。「自分ではない誰かの脳を借りて、そこから見える世界を、のぞいてみたいなあ」(p.1)と彼女は言う。わたしのなかにも、似たような好奇心がある。読書は、それをすこしだけ可能にしてくれる(気がする)。

きっとこのブログをお読みになる方にも、そんな好奇心があるのかもしれない。ちょっとどうかと思うぐらい好奇心旺盛な人じゃないと読まないでしょう、こんなの。

 

追記:村瀨孝生さんの言う「抗い」は、わたしなりの理解として「免疫」と言い換えるとしっくりくる。精神的な免疫。免疫系は自他の境界域だし。

 

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