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日記989


某日、松江泰治の写真展へ。品川のキャノンギャラリーSにて、3月7日(火)まで開催されている。入場無料。

キヤノンギャラリー 松江 泰治 写真展「ギャゼティアCC」

松江氏は「絶対ピント」と評されるペカーっとした写真を撮る人。説明が下手すぎるな……。すべてにピントを合わせた空撮。つまり、ペカーっとしている。極力、影を排して平面性を追求した写真だそう。空や地平線も排す。と、だいたいリンク先に書いてある。

上空から都市をペカーみたいな。都市にかぎらず、山肌や海やペンギンやヒマワリなどもあった。みんなペカー。ビル群が模様のようにそびえ立つ写真に惹かれた。くらくらする。鮮やかにピン止めされた二次元平面。影の排除は、時間の排除ともいえる。建物が面として写真にフィットしている。機械の目を最大限まで引き立てた感じ。標本的な印象も受ける。刺すような撮り方。まったく異なるが、なぜかベルント&ヒラ・ベッヒャーを連想した。

細部を見ようとして作品に近づくと、自分の影がかかってしまう。それを避けたくて距離を調節する。そんな鑑賞時の心理もおもしろかった。写真の明るさに影をさしたくない。

 

 

これはわたしの撮影。暗い……。比較にならないことは承知の上で、松江氏と比較対照してみる。比較すればなんか見えてくるはず。半分以上が影。地平線は写らないようにした。「松江泰治のように撮ろう」と思ったわけではなく。家並みを隅々まで敷き詰めたかった。ぞろぞろと。

おそらく、両方ある。松江氏の撮る鮮明な平面(等しさ)に惹かれる一方で、暗い見通しの悪さにも惹かれる。自分のなかには、さらす方向性と隠す方向性が同居しているように思う。仮に松江泰治の方法を理系的とするなら、影をとりいれる感覚は文系的といえるかもしれない。

「ペカー」はメカニックで、影はポエティック。そういう感じがする。一個の感覚に過ぎないので、いい加減な見立てだけれど。だいたい「ペカー」とはなんだ。

ともかく、自分の写真には明るさと暗さの両面がある。



これも典型的。できるだけ鮮明に暗くしたがる。明るいも暗いも、いずれにしろ鮮明に。明るい暗さ。暗い明るさ。乾いた暗さ、というか。暗くても、さっぱりしていたい。湿度は低く。切れそうな鋭い影を良しとする傾向が見てとれる。

 

 

塗装の裏に、ドアとポストのようなものの痕跡。明らかに隠れている。これも鮮明だけど見えないたぐい。「見えるけど見えない」みたいなテーマで過去の写真を見繕うことができそう。検索ワードをひとつ発見。

むかしから標本写真をよく眺める反面、不明瞭な抽象表現も気になる。「これ」とひとことで名指せる表象と、解釈を要求する表象。自分のinstagramを振り返ると、両方ある。要するに、分類学と解釈学。比率は分類のほうが高め(たぶん)。そもそもハッシュタグというシステムが分類学的だから。解釈を求める名付け難い写真はシステムにそぐわない。

でも、コメントで「この写真はあれに似てますね」とか「あれを思い出しました」とか解釈を施してくださる方がしばしば現れる。それはとてもうれしい。あたりまえだけど解釈はシステムではなく、人間に依存するのだとわかる。

分類と解釈は「見る目」の不可分な両輪だと思う。分類自体、解釈がないとできない。解釈も必ず分類に行き当たる。写真のセレクションはおそらく、この両輪でなされる。いったりきたりしながら。

わたしの場合、撮るときはほとんど考えなし。分類も解釈もとくにない。それでも文体みたいな統一感が出るのはふしぎ。ランダムになれない、視覚的な習慣の呪縛がある。あ、雪見だいふくのフォークは分類ありき。「♡」の形も分類ありき。思い返すと、標本的に撮るものは多い。

 


instagramにコツコツ投稿をしはじめた当初は、不気味な近寄りがたいアカウントを目指していた。淡々とよくわからない写真を上げつづける。アウトサイダー・アートのような感じで黙々と理想宮を拵えようと。しかし、どうしてもそうならない。ネタ的な微笑ましい写真も上げてしまう。猫もつい撮っちゃう。コメントにも気さくに返信する。

猫やネタによって、話が通じそうな雰囲気が出る。かわいい動物や笑いはコミュニケーションの回路をひらく。ここでも両面ある。共有されづらいものへの志向と、共有されやすいものへの志向と。わかりにくさと、わかりやすさと。気難しさと、気安さと。

自分は中間的で、中途半端な人間だとはつねづね思う。写真にはその性格がそのまま現れている気がする。悪くはない。単なる特徴なので、この特徴をできるだけ活かしたい。半端者であるぶん、フットワークは軽い。



「おびただしさ」もキーワードとして抽出できる。松江泰治の写真にも、スケールは桁違いだけど、おびただしさがある。そこに惹かれる。文字通り一面のヒマワリ畑は、すばらしくおびただしかった。「すばらしくおびただしい」って新しい日本語だな……。

「量による反転」を思う。おびただしいものを前にすると、「見る」が「見られる」に反転する。そんなことはないだろうか。たとえば、壁じゅうにおびただしい数の写真が貼られた部屋を想像してみる。踏み入れた瞬間、ゾッとしそう。写真は見るものだけれど、量によって「見られる」に反転するためではないか。写真に見られる。そんなことを考える。

念頭にあるのはパラケルススのことば。「量が毒を作る」。どんなものでも、おびただしいと裏返る。ただの水でも大量に飲めば害をなす。わたしの部屋にはおびただしい数の書物が積まれていて、本が住んでいるのかと見紛う。自分の居場所がほとんどない。おびただしさは、主体が侵される感覚をもたらす。

「コレクターはやがてエージェントになる」と仏文学者の鹿島茂が話していた。長いあいだ蒐集を続けると「好きだから集める」から離陸して、なにか大きな存在に集めさせられているような、ひとつの思想に命じられて蒐集するような感覚になるらしい。「なんでこんなものを?」と思いながら。みうらじゅんも似たような話をよくしている。こちらは仏教の思想が基礎にある。「無」をあそぶような感覚だろうか。

写真を撮る人もあるいは、コレクターと似た面があるのかもしれない。他の方はどうかわからないけれど、わたしは「なんでこんなものを撮っているのか?」という疑問が絶えない。この記事も、その疑問にもとづいて書いている。雪見だいふくのフォークが好きなわけではけっしてないし、路上の「♡」もどうでもいい。と、思いながらも撮りつづける。自嘲気味に。

冒頭から、「惹かれる」ということばを意識的に選んでいる。能動的な「好き」ではなく、受け身に「なんか引っぱられる」ようなものとして写真を考える。とかく「主体が侵される感覚」に興味がある。自意識を失いたいと思い続けている。その点では「自分なくし」を唱える、みうらじゅんに近い。「おびただしさ」からは、そのあたりの思想が抽出できる。

そういえば、松江泰治の展示も「地名収集」と称していた。「コレクターとしての写真家」という着眼点から他の人の作品も観てみるとおもしろいかもしれない。



曲がりなりにも写真を撮っていると、写真展の観方が変わる。すこし内省できるようになる。これはきっと、あらゆることに言える。ボクシングをやれば内省的にボクシングを観るだろうし、ジークンドーをやれば内省的にブルース・リーを観るだろう。女装をすればやがて心の内にマツコ・デラックスが芽生えるかもしれないし、怒りに任せて左耳を切り落とせばゴッホに接近できるかもしれない。画家としてのゴッホではなく、あくまで左耳を自ら切り落とした人間としてのゴッホに。

 

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