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日記991


 

3月13日(月)

ソーニャ・ダノウスキの『スモンスモン』(岩波書店)という絵本を読んだ。こんな文章から始まる。

“あさです。スモンスモンは のこりひとつになった ロンロンを オンオンのとなりに ヨンヨンでつるすと、トントンで かわをくだっていきました。”

この時点でもう泣きそうになる。べつに泣ける内容ではないが、なんか胸に迫る。公園で無邪気にあそぶこどもたちを見て泣きそうになる感覚と近い。何年ぶりかに絵本を手にした。それをなんとなく記録しておきたくなった。

ついでに、何年ぶりかに霊柩車を見た。むかしはちょくちょく見かけたけれど、いまどきはとんと見ない。これもめずらしいので記録しておこう。注意深く過ごしていれば、まいにちのようにめずらしい出来事は発見できるのだろう。その日しか起こり得ないような。ほとんどは見過ごすか、忘却する。

さいきん、立て続けに映画を観た。これも自分としてはめずらしい。映画館に行ったわけではない。家で『ディザスター・アーティスト』、『こちらあみ子』、『サマーフィルムにのって』の3本。映画っていいなと、まるではじめて映画を観た人のように感じた。

『ディザスター・アーティスト』を観て思い出したのは、『トイ・ストーリー』のバズ・ライトイヤーだった。『トイ・ストーリー』は小学生のころ劇場で観て、生まれてはじめて「映画っていいな」と感じた作品だと思う。たしかそう。

バズはスペースレンジャーで、無限の彼方へほんとうに飛び立てる。ビームも出る。自分でそう思いこんでいた。しかしあるとき、おもちゃとしての自己に気づいてしまう。このシーンで小学生のわたしは、ひどく胸を痛めた。『ディザスター・アーティスト』の主人公、トミー・ウィゾーもバズと似た自惚れ屋で、自分は俳優として大成できると信じていた。でも、トミー自身が夢想するような成功はおとずれない。彼は予想だにしない角度からの成功を収めることになる。

ラストで「笑い」の意味がぐるっと反転する。世界は変わらない。変わったのは、あくまでトミーの世界観だった。劇的なアスペクトの転換。自分ひとりの虚構が破れ、みんなの虚構が受け皿になる。バズ・ライトイヤーも最初は、ひとりよがりな虚構の主人公だった。それが破れ、みんなの虚構へと徐々に合流していく。

わたしはたぶん、幼いころから一貫して、このような構造に興味がある。ひとりよがりな虚構と、みんなの虚構との折衝を重ねること。おおげさに言えば、人生はそんな連続なのだと見ている。

しかし単純に、みんなの虚構と折り合えば良い、とは思っていない。スペースレンジャーとしての、『トイ・ストーリー』の世界観になじまない異質で孤独なバズも魅力的だった。彼の生き生きとした孤独に、半ば自分を重ねていた。だからこそ、おもちゃだと気づいたときの崩壊感がつらかった。

『ディザスター・アーティスト』のトミー・ウィゾーも俳優としてのセンスには欠けるが、俳優をあきらめない。その感情はとても生き生きとしている。この人のひとりよがりな虚構を守りたい、とさえ思う。扱いづらい腫れぼったさもふくめて。

思い出すのは、(毎度ながら)お年寄りのこと。年をとると人は、「みんなの虚構」からすこしずつ離れていく。「みんな」と交渉をする力が衰えて、ひとりよがりな虚構を生き始める。言わば、おもちゃとしての自覚のないバズ・ライトイヤーになるのだと、そんなふうに感じる。お年寄りは無限の彼方へ、ほんとうに飛び立てる。

幼い子どももそう。「みんなの虚構」なんか知らない。ひとりよがりな虚構のなかに、生き生きと住む。人間は無自覚なバズ・ライトイヤーとして生まれ、やがてふたたび無自覚なバズ・ライトイヤーに還るのではなかろうか。だからわたしは、ひとりの虚構をみんなの虚構へと合流させることが一概に「成功」だとか「成長」だとか思わない。もっと複雑にとらえている。

そもそも人の活力のベースには、ひとりよがりな虚構がある。生き生きとした孤独。「勘違い」と言い換えてもいい。それはたぶん、生涯を通じてなくならない。まずはその勘違いパワーをたいせつにしたい。

『こちらあみ子』では、あみ子のひとりよがりな虚構が最後まで破れない。好きな人に顔面をボコボコにされても破れない。どこまでもひとりよがりで、それとは対照的に、あみ子の家族の虚構が破れていく。

「理由」について考えた。あみ子は終始、理由から隔てられたところに佇んでいる。あみ子に理由を告げる者はいない。あみ子はなんの理由もわからない。周りの人からすれば、あみ子の行動の理由がわからない。「理由のわからなさ」は不気味で、たいていの人はそれに耐えられない。だから、あみ子は疎んじられる。理由から隔てられていると、折衝の機会も得られない。「みんなの虚構」とは没交渉的でありながら、しかし、あみ子は明るい。「理由のない明るさ」がこの映画の基調にはある。隔離された明るさ、というか。

あみ子の母親は、死産の「理由のなさ」に耐えかねて病んでしまう。あみ子の兄は、理由を求めてバイクで走り出してしまう。あみ子の父も家族でありつづける理由を見失い、さいごはあみ子と別れた感じがする(記憶が曖昧)。理由が離散した一家の物語。

「理由から隔てられた」とは言えとうぜん、あみ子にもあみ子なりの理由がある。でもそれは、ないことにされてしまう。「変な子」だから、まじめに取り合ってもらえない。

わたしも「変な子」として扱われていた経験があるから、あみ子の隔てられた感じはなんとなくわかる。というか、いまでも「隔てられた感じ」からは一歩も抜け出せていない。だから、虚構の折衝みたいな妙なことをいつまでも考えてしまう。

『サマーフィルムにのって』は単に楽しんだ。これを観終えてから、「やっぱ映画いいな」と感じた。欲望を分けてもらえる。いまの自分に必要な気がする。あまりに無気力だから。映画を眺める習慣をとりもどしたい。むかし(だいたい10年前)はかなり観ていたが、ここ数年はほぼ観なくなっていた。

今日の日記は、ささやかな転機のメモ。


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