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日記993


四月は残酷極まる月だ
リラの花を死んだ土から生み出し
追憶に欲情をかきまぜたり
春の雨で鈍重な草根をふるい起こすのだ。

 

4月といえばT.S.エリオットの「荒地」(西脇順三郎 訳)と思っていたら、4月がとうに過ぎていた。3月以来、放置していたこのブログ。5月もすでに終わりかけている。5月といえば、なんでしょね。と思案しながら部屋を片付けていたら、中井久夫による「よい治療」の比喩を思い出した。

 

 筆者の経験では、「自分」が妙に意識されているときは、よい治療をおこなっていない。治療が円滑に流れているときは、「自分」があるのかないのかわからなくて、緑の樹々を通ってきた5月の風が、開け放った座敷を吹き抜けてゆくような感じである。これはなにか東洋的な感じがするかもしれないが、フロイトが「自由にただよう注意」と言ったものはこれに近いのではないか。こういう心境にまでは、しかし、なかなかなれないものである。

 

中井久夫+山口直彦『看護のための精神医学 第2版』(医学書院、p.10)より。患者との関係性における、ある意識状態の比喩だろう。「緑の樹々を通ってきた5月の風が、開け放った座敷を吹き抜けてゆくような感じ」。わかるようなわからんような……。風の動き、そして「自由にただよう注意」。ここからさらに連想したのは、高原英理『うさと私』(書肆侃侃房)の「うさぎ時間」だった。


 寝るとき。寝て夢を見るとき。決まった時間に起きられないとき。決まった時間に寝られないとき。空の色が気になるとき。風の動きが見えるとき。星の光が少し遅れて届くとき。樹にのぼりたくなるとき。悲しいことがあっても、くるっと丸くなっているうちに忘れてしまうとき。したくないことからすぐ逃げるとき。よく皿を割るとき。よく転ぶとき。ときどきこれでいいのかな、と思うけれども、そのうちに、あれ、何悩んでたのかな、と考えるとき。会話にぱぴぷぺぽのつく言葉が増えるとき。丸いものが好きになるとき。人のいったことがすぐにわからないとき。意地悪されてもなかなか気がつかないとき。何かいわれてもすぐにいい返せないとき。ぼんやりしているとき。ぼんやりしている間に周りが変化してしまっているとき。誰かと話していて、話している内容より思い出したことのほうが気になるとき。君にはちっとも将来への展望がないねといわれるとき。何考えてるのかわからないといわれるとき。でも幸せなとき。
 こういうとき、人はうさぎ時間にいる。(pp.140-141)


治療とは関係ないが、よい状態だと思う。つまづきながらも、とどこおることがない。焦りや嫌気に変わりそうなこともするすると流れる。忘れてしまう、すぐ逃げる、あれ、何悩んでたのかな。影も差すけれど、基調は明るい。人間の文脈としては不安でも、「うさぎ時間」においてはその限りではないのだ。

ここではまさに、「自分」があるのかないのかわからないさまざまな「とき」のことが綴られている。冒頭からそう。寝るとき。寝て夢を見るとき……。適当な感覚で『うさと私』を連想したけれど、意外と遠くはないのかもしれない。こういう心境にまでは、しかし、なかなかなれないものである。それもふくめて。

1件だけついている『うさと私』のAmazonレビューには、こうある。「機構の良いよく晴れた日に木漏れ日の中か、縁側かにいるようなそんな作品でした」。「機構」は「気候」の誤字だろう。これは5月の風の比喩にも通じる。

中井久夫は医療者に必要な素地として、「日向性」を挙げている。このところ中井氏の著作を重点的に読んでいて思うのは、「この人は徹頭徹尾、希望の人なのだな」ということだ。暑苦しい希望ではなく、そっと揺曳するような涼しげな希望。大きな光ではなく、ふとした隙間から滲む光。それを見逃さない。「傷は光の差し込む場所」というジャラール・ウッディーン・ルーミー(13世紀に活躍したペルシアの詩人)のことばを思い出す。

あと中井の「よい治療」から連想したのは、こういう文章。


神の道において出会う人たちは、互いに分かち合うべきものを持っている。ある人は、他の人にとって何ものかでありうる。しかしもちろんそれは、かれかその人に対して何ものかであろうと意志することによってではない。だから決してかれの内面の豊かさによるのではない。かれが現にあるところのものによるのではなくて、まさに、かれが現にないところのものによって、かれの欠乏によって、かれの嘆きと望み、待つことと急ぐことによって、かれの存在の内にあって、かれの地平を越え、かれの力を越えるある他者を指し示すすべてのものによってである。使徒とは、プラスの人間ではなく、マイナスの人間であり、このような空洞が見えるようになる人間である。


佐々木正人 編『包まれるヒト 〈環境〉の存在論』(岩波書店)に収録されている、保坂和志の試論「小説、言葉、現実、神」より、カール・バルト『ローマ書講解』の一節を又引。わかったようなわからないような文章。とは、保坂氏も書いている。

「空洞が見えるようになる」という、ぽかんとひらけた空間的な「あるのかないのかわからない」イメージがリンクすると思った。ドーナツの穴みたいな。無としての有みたいな。そこを自由にただよう……。中井久夫の筆致はさりげなく簡明だけれど、上記のカール・バルトにも通じるような謎めいた魅力がある。半分は背中で語るような。「わかったようなわからないような」ところは、固有の生きた世界観が反映されているのだと思う。究極的には、彼の比喩は彼のように生きてはじめてわかるのだろう。

話がすっ飛ぶけれど、人間はみんな、何かの比喩として生きているのではないか。模倣や類似が認識の基礎にある。ざっくりし過ぎた物言いかもしれないが、わたしたちは一個の比喩だ。個別具体的な世界観が反映された比喩。あなたも、わたしも。たとえばの話。


5月7日(日)、町田市のナミイタという場所で舞踏を観た。踊り手は横断小僧さん。新鮮な体の動き。ひとつひとつの動作を一からやり直すというか、一からふたたび体を生み出すような、分解と再構築が繰り返される時間に浸る。まったく分野違いの話だけれど、綾屋紗月・熊谷紳一郎『発達障害当事者研究 ゆっくりていねいにつながりたい』(医学書院)の以下のくだりを思い出した。舞踏の解説としても通りそうな内容かなと思う。


 多くの人がうっかり取り込んでいる「意味・行動のまとめあげパターン」を、私たちのような少数派は、さまざまな理由で取り込めない。そのかわり手探りで、独自のパターンを、ゆっくりていねいにまとめあげることになる。また、多くの人はできあいの同じパターンを取り込むことで、互いにつながっている感覚を得ることができるが、少数派にはそれもかなわない。そのかわり手探りで、互いに共有できる意味や行動のパターンを、ゆっくりていねいにまとめあげることになる。
 もちろん、同じ身体をもっているわけではない以上、完全に同じパターンを共有できるわけではない。しかし、自分のパターンを疑い、分解し、また新たにまとめあげ直すという「自閉的な」作業をお互いに重ねることで、近づくことはできるだろう。pp.208-209


自分のパターンを疑い、分解し、また新たにまとめあげ直す。舞踏はそんな実践かに思える。舞踏にもいろいろありそうだけれど。ナミイタという場所の存在は、横断小僧さんのinstagram経由ではじめて知った。展示をされていたアーティストのゆにここさんや、堀江和真さんともすこしだけお話する。お土産に版画などをもらった。すぐ帰ろうと思っていたが、なんかよくわからないまま巻き込まれてしまう。楽しい巻き込まれ。以下の写真は、ゆにここさんの刺繍作品。



白い、海のものとも山のものともつかぬ何か。貝殻を発見したかと思えば、キノコが生えていたり。制作期間をお尋ねすると、わからないというお答えだった。サグラダ・ファミリアのようなものかと理解する。ちなみにサグラダ・ファミリアは2026年ごろ完成するらしい。完成したら、「未完の大作」をあらわす比喩として使えなくなってしまう(追記:Wikipediaには、コロナ禍の影響で「2026年に完成させることはほぼ不可能」とあった)。それはいいとして、この白いものたち、無料でおさわりし放題だった。「かわいい」を連呼しながら10分ぐらいふにふにした。最高でした。移動美術館、アートトラックにての展示。カルチュラルライツという団体さんが運営している。

 

5月21日(日)、文学フリマへ。幾人かの知人とお会いできてよかった。一方的に知っている、一部界隈では有名な方のご尊顔も拝する。貴重な交流の機会を楽しんだ一方で、人の多さに疲弊してしまう。あまり長居せず、そそくさと退散。人間が多い場所へ行くと、そのぶんだけ疎外感も強まる。この難儀な性向はなんなのか。と、ひとり歩きながらぼやぼや思う。帰りは長いこと歩いた。3時間くらい。憑き物を落とすように。

自分は生きるということの、ずっと手前でつまづいている。生きていながら、まだ生きるということを選択できていない気がする。この感覚は幼少期から変わらない。理由がどこにもない。なにもないなと思う。意味がわからない。わかったようなふりをしているけれど、ほんとうはことばのひとつひとつがぜんぜんわからない。その共同的な性質がわからないのか。どこで何をしていても異分子のようで所在がない。たぶん、「信」の構築に瑕疵がある。エリクソンの発達理論でいうところの「基本的信頼感」(basic trust)みたいなもんが壊れているのだろう。これは生涯ついてまわる課題なのかもしれない。

ひとりで歩くとき、このような所感によく思いが至る。書き出すと陰気だけれど、半ば自分を笑っている。皮肉にも、明るくも。おかしなやっちゃ、と。「まだ」の地点から見える光景は、すべてが行き過ぎている。みんな話の前提がすっ飛んでいる。すっ飛びの嵐。台風のなかにいるみたい。飛散したことばの破片を、あとからあとから拾いなおす。自分なりに組み立てなおす。これが習い性になっている。とはいえ、わたしもたいがい別の方向にすっ飛んでいるから、人のことは言えない。整理したつもりが、より散らかしていた。なんてこともしばしば。

数日前、「走散的心」ということばを見つけた。

中国語で、「失恋」とか「さまよえる心」とか「心を失う」とか、そんな意味らしい。走り散るような心。美しいと思った。

 

 

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