スキップしてメイン コンテンツに移動

日記994


5/25/49

今日、ひとつ考えついた――明白、いつだって明白なこと!こんなことを、今さらはじめて、唐突に悟るなんて、馬鹿げてる――なんだかいらついて、少しヒステリカルになる――私がどんなことをやろうと、自分以外にそれを止めるものは何も、何もない……ただ何かを取り上げ、何かから離れる、それを阻害するものがあるだろうか? 自分の環境ゆえにあえて自分から押し付けている圧力だけじゃないのか、阻害要因は。でもこれまでは、その圧力がつねに万能に思えていたので、それに反することをあえて考えようともしなかった……でも実際のところ、何が私を止める? 家族が怖い――とくに母が? 保障と物質的所有にしがみついている? そう、たしかに両方ともある、けれど、私を押しとどめているのはそういう現実問題だけ……大学って何? (以下略)


スーザン・ソンタグ『私は生まれなおしている 日記とノート1947-1963』(河出書房新社、p.48)より。ソンタグ、16歳の日記。盗んだバイクで走り出しそうな勢い。自由であることの悟り。しかし、それへの躊躇も読み取れる。「私がどんなことをやろうと、自分以外にそれを止めるものは何も、何もない」としながらも、なお自問がつづく。自由であることはたぶん、孤独なことでもあるから。「阻害要因」とは、つながりの総体。

ここで語られているのは、離れる自由。走り出す自由。大いなる自由、とも言えるかもしれない。上記の5/25/49の日記は、「いやはや、生きるとは、壮大なるべし!」と締めくくられている。大きなスクリーンに投影された自由の感覚。

逆に、つながりから立ち上がる小さな自由もある。平行して読んでいた、キム・チョヨプ/キム・ウォニョン『サイボーグになる テクノロジーと障害、わたしたちの不完全さについて』(岩波書店)にこんなくだりがあった。キム・ウォニョンによる。

 

 自分の身体が自分とは無関係の客観的な「モノ」や他者のように見えるとき、自分が何者なのか頭が混乱するけれど、また一方で、その「モノのような身体」を自分の意思で動かせることにあらためて神秘を感じたりもする。キム・ボラ監督の映画『はちどり』で、家族からの暴力や友人の裏切りに疲れた中学生ウニに、ヨンジ先生は言う。
 「ウニ。つらいときは指を見て。そして指を一本一本動かすの。すると神秘を感じる。何もできないようでも、指は動かせる」
 手の指を10秒ほど、ただ何の意味もないモノのようにぼんやりと眺めてみよう。すると、自分という存在はいったい何なのか、少々頭が混乱してくるだろう。そのときそれを動かしてみよう。すると、自分が本当に世界とつながった、神秘的な統制力を持つ存在であることを、少しは経験できるはずだ。(p.30)

 

指を何の意味もないモノのように眺め、改めて動かしてみる。いったん切り離して、つながりを回復させる。静から動へ。そこから得られるのは、「自分が本当に世界とつながった、神秘的な統制力を持つ存在であること」。今一度つながりなおすことによって得られる自由がある。

ソンタグの「自由」とはスケールが異なるけれど、「自己を統制する」という点では似ている。ただ、キム・ウォニョンの場合はそこへ「神秘」が挟まる。自己を動かす者は誰か。それを可能にする淵源はどこにあるのか。そんな問いの射程がうかがえる。いや、単なる修辞なのかもしれない。でも、「つながり」は自己だけに限局されるものではなく、つねに「何かとのつながり」なので、指を動かすだけでもなんか、もうひとつあるね、きっと。

世界とつながる神秘。わたしなりに言い換えるとそれは、やはり、「孤独」なのではないか。そんな気がする。孤独な状態とは、単純なひとつではない。「もうひとつ」であること。もうひとつ別の世界、つまりオルタナティブを見つけること。「何もできない」と打ちひしがれているときに教わった、「指が動く」という、もうひとつの認識。現在の環境を離れる、それを阻害するものは自分以外に何もないという、もうひとつの認識。

良くも悪くも、孤独は「もうひとつ」をつくる。ある家庭が認知症の親族を鎖でつないでいた事件に触れて、精神科医の春日武彦は「孤独という島ではなんでも起こる」と書いていた。外部の目が届かない場所では、なんでも起こる。盗んだバイクで走り出したり、夜の校舎の窓ガラスを壊してまわったり。わたし自身、「孤独という島」では何度も殺人を犯しているし、自殺だって日常茶飯事だ。むろん、それは想像に過ぎない。しかし、鮮明な「もうひとつ」の世界である。

自由と孤独は、自分のなかで不可分に結びついている。孤独でない状況における自由が想像できない。社会生活を送るなかで自由を感じることはできそうもない。だから本を読むのかもしれない。書物のなかには、もうひとつの時間がある。「読書とは、突き詰めていくと、孤独の喜びだと思う」という恩田陸のエッセイを思い出す。

 

 読書とは、突き詰めていくと、孤独の喜びだと思う。人は誰しも孤独だし、人は独りでは生きていけない。矛盾しているけれど、どちらも本当である。書物というのは、この矛盾がそのまま形になったメディアだと思う。読書という行為は孤独を強いるけれども、独りではなしえない。本を開いた瞬間から、そこには送り手と受け手がいて、最後のページまで双方の共同作業が続いていくからである。本は与えられても、読書は与えられない。読書は限りなく能動的で、創造的な作業だからだ。自分で本を選び、ページを開き、文字を追って頭の中に世界を構築し、その世界に対する評価を自分で決めなければならない。それは、群れることに慣れた頭には少々つらい。しかし、読書が素晴らしいのはそこから先だ。独りで本と向き合い、自分が何者か考え始めた時から、読者は世界と繋がることができる。孤独であるということは、誰とでも出会えるということなのだ。

 

『小説以外』(新潮社、p.179)より。本は孤独という繋留点のかたち。そういえば、「あらゆる書物は孤独の象徴だ」とポール・オースターも書いていた(『孤独の発明』)。「しかし、そこには二人いる」みたいなことも。恩田陸の「矛盾がそのまま形になったメディア」は端的で、言い得て妙だと思う。詩的な直想に変えて、「双生としての書物」なんてどうだろう。

なぜ、「孤独である」と「誰とでも出会える」が両立するのか。もうすこし、ことばを補いたい。自分が何者か考えるには、まず何者でもなくなることが必要に思う。何者でもない地平に立つ。そこに孤独がある。書物の前では、自分が誰であってもかまわない。読むことで、そのたびごとの変容を受け入れようとする。自己変容が可能になる。だからこそ、「誰とでも出会える」。

こんなところか……。「何者でもなくなる」と書きながら、繭の中でドロドロに溶解するようなイメージが浮かんだ。もしくは、胎児でもいい。双生児。「孤独の喜び」とは、「退行の喜び」なのかもしれない。そっか。冒頭から書いてきたことは、「退行」の一語で串刺しにできそう。そもそもの始まりが『私は生まれなおしている』だった。

 

 人生を「条件付けられたもの」としては受け入れない……
 あらゆることは今から始まる――私はもう一度、自分で生まれなおす。

 

いつだったか、「こども時代の自分の感情をすくいあげるように生きている」と友人に話したことがある。もう一度、やりなおすように。「生まれなおす」は大袈裟だけれど、何かをやりなおしつづけている感覚はずっとある。

こどもの頃、やりたかったことはとくにない。だけど、「こうしてほしかった」という周囲の大人に対する思いはぼんやりと記憶している。果たされなかった、通じなかった感情の残滓がある。その「こうしてほしかった」を、大人としてすくいあげたい。幼い自分のリクエストに応答したいと思っている。あらゆることは過去から始まる。

ソンタグ(16)のことばは力強いけれど、やはり「条件付けられたもの」はすくなからずある。そいつを見留めた上でやりなおせればいいと、折衷的に考える。つまらないかもしれないが、わたしの頭はそんな感動的にできていない。むしろ感動は警戒する。

とはいえ『私は生まれなおしている』を読むと、ちょくちょく感動しちゃう。当てられる。当てられたくて読んでいるふしもある……。クールぶってごめん。じつは熱いのも好きだ。でも、流されてはいけない。やせ我慢している。

いや、そうだな……。感動への警戒は、こどもっぽさへの警戒かもしれない。「人生のやっかいな謎の一つは、われわれが子供の時に感じることしかできないことを、大人になって理解することしかできないという事情である」(レスリー・フィードラー)。そして理解は、警戒心と深いところで結びついている。「大人としてすくいあげたい」って、いい人のふりして折伏したいだけじゃないか。教化したいだけじゃないのか。

すくいあげるならもっと、こどもに帰ったほうがいい。できるかぎり感じるべきだろう。正すのではなく、間違ったまま。「通じなかった」その思いを、通じなかったそのままに。孤独に、意味のないところから始める。たとえば、アラン・ムーア『ウォッチメン』のロールシャッハみたいに。

 

人間の脂が燃える煙が空に立ち昇るのを見て、その上に神などいないと思った。闇と真空がどこまでも続くだけだ。俺たちは孤独なんだ

わけもわからずに走り回って、後で理屈をひねり出すしかない

虚無から生まれ、人生という拷問に歯を食いしばって耐えてから、また虚無に帰る

ただそれだけだ

世界は偶然の塊だ。パターンなんて、見る者が自分の空想を押し付けただけだ
本当は、意味なんかありはしない
この最低の世界を創ったのは、形而上学的な超越力じゃない。子供を殺したのは神じゃないし、その死体を犬に喰わせたのも運命なんかじゃない
俺たち人間だ
人間の仕業だ

きな臭い煙の中で、俺の胸に残っていた最後の希望が凍りついて、粉々に砕けた
俺は生まれ変わり、無意味な白紙の世界に自分の考えを記そうと決意した

それがロールシャッハだ

あんたの疑問に答えられたか、先生



ロールシャッハもまた、「生まれなおしている」。パサパサに乾いたセリフだけれど、「指が動く神秘」みたいなこととも近いと感じる。中身はまったくちがうが、結果的にゼロから主体を立ち上げなおしている。「なにもない」と悟った時点から、もういちど始まる。ここが構造的に共通。

「退行」、あるいは「なにもない」から始まる、という線が見えてきた。連想のおもむくまま適当に書いていても、徐々にまとまってくる。自分のなかで無意識にリフレインする題材がある。いつも繰り返している。きっと、また繰り返すのだろう。すこしずつ趣向を変えながら。思考は螺旋状にすすむ。



さいきん想起したことを拾っておきたい。忘れないうちに。

性器を犬に噛まれた少年が登場するマリオ・バルガス・リョサの小説から、まったく関係ないけれどウィロートさんを思い出した。もしかしたら、前にも取り上げたかもしれない。でも、彼のことは思い出すたびに追悼しておきたい。

ウィロートさんとは何者か。まったく知らない。

知っているのは、彼の死亡記事だけ。

 

見出し:コンドームつけコブラと格闘、両者相討ち

【タイ】タイ中部アユタヤ県で8日朝、コブラと格闘の末にかまれて死亡したとみられる男性の遺体がみつかった。

 国営テレビ局チャンネル9によると、遺体は倉庫会社に勤務するウィロート・バンセンさん(40)で、足や顔など数カ所をコブラにかまれて道路脇で死亡しており、両手の間には体長1.5メートルほどのコブラの死骸があった。ウィロートさんの口の中にヘビのウロコが付着していたことから、ウィロートさんがコブラをかみ殺したとみられる。

 ウィロートさんはズボンの下にコンドームを装着しており、女性と野外で性交しようとしたところをコブラに襲われたようだ。


10年以上前の記事。何度読んでもおもしろい。iPhoneのメモ帳に保存している。いや、おもしろいとか言っちゃいけないか。でもおもしろいんだからしょうがない。手で絞め殺す、とかではなく、口でコブラを噛み殺すって。コブラ噛むなよ。しかも野外でコンドームつけて。リョサの小説そっちのけで、しばしウィロートさんに思いを馳せてしまった。すばらしいと思う。あなたの勇姿を忘れない。R.I.P.



と、これも連想の飛躍だけど広末涼子の話題を人づてに聞いて、きょう聴いていた曲。ウィロートさんほどの飛躍ではない。


 

飛び込んでみたのよ
あなたに
何番目でもよかったから
笑えるね

先のこととかどうでもよくなって
私はただの馬鹿な女になりさがったんだ

人々はすれ違い こころを隠してる
私たちはもうただの、ともだちじゃない

 

恋は魔物の「ともだち」。後半の「人々はそれぞれに 幻想を抱いてる/寒空と街路樹は 後ろめたく輝いた」という歌詞が好き。広末涼子の景色もきっと、後ろめたく輝いていたはず。馬鹿になれるってすごいと思う。「理解は警戒心と結びついている」という話とつながる。理知性から離れることは、それだけ警戒心が解かれる、解かれてしまうことにほかならない。

そうなると後先はさておいて、感じることが優位になる。こどもみたいに世界とつながれる。自分を見失える。何者でもなくなる。恋愛の時制は〈今〉しかない。「あらゆることは今から始まる」と日記に書くソンタグ(16)もたぶん、なにか愛していたにちがいない。愛する人はときどき気狂いのように見える。もちろん、愛さない人々にとって。


コメント