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日記995


さいきん以下の洞見をよく思い出す。「信なき理解」の破壊性。中井久夫+山口直彦『看護のための精神医学/第2版』(医学書院、p.230)より。

 

 親密で安定した関係をつくろうとする努力は、長期的にはかえって患者の「うらみ」を買いかねない。理解しようと安易につとめるならば「わかられてたまるか」という怒りを誘いだす。
 患者は「わかられない」ほうが安心している。理解を押しつけると、今度は「わかっていない、もっと理解せよ」という際限のない要求となる。人間は人間を理解しつくせるものではない。だから「無理難題をふっかける」というかたちの永遠の依存になってしまうのである。
 「理解」はついに「信」に及ばない。あなたの配偶者や子どもを「信」ぬきで理解しようとすると、必ず関係を損ない、相手を破壊する。統合失調症の再発も確実に促進する。
 婚約者にロールシャッハ・テストを施行しようとする精神科医はフラれて当然なのである。ロールシャッハ・テストは、治療者の「ワラをもつかみたい」気持ちで手がかりを求めるときにおこなうものである。人格障害といわれる人は「信なき理解」にさらされてきた人であるかもしれない。

 

 

患者は「わかられない」ほうが安心している。ふつうの対人関係のなかにも、この感覚はあると思う。すくなくともわたしは、むやみに「わかられない」ほうが安心できる。ある程度は放っておいてほしい。知らないでおいてほしい。他人のこともわからない。わかるものではない。

「問い」は、危険なものだ。その危険を互いに楽しめるだけのフィジカルがある、勝手知ったる間柄でないと、やたらに問えない。

上記の引用は個人間の想定で書かれているが、集団のあいだにも生じる心理的な機微だと思う。「わかられてたまるか」という怒り、「わかっていない、もっと理解せよ」という要求は、twitter等のSNSで政治的なトピックとしてしばしば目にする。

「理解」は手っ取り早いけれど、「信」の共有には時間がかかる。昨今は手っ取り早いほうが是とされがち。しかし、「信」のバッファがなければ「理解」は暴走してしまう。

「信」というと一般に、強固な意志がイメージされるかもしれない。中井久夫の文脈における「信」はすこしちがう。バッファ、つまり緩衝器のようなものではないかと思う。ふわっとした、やわらかい何か。

どちらかというと、「理解」のほうが硬質かな。ガッ!っとくる感じ。「信なき理解」の破壊性をわたしなりに超訳すると、「ガッ!っといったら、ガッ!っと返ってきて、ガッ!の連鎖がやばいから気をつけなね」という話じゃないか。「ふわっとした幅をもとうね」と。

長嶋茂雄みたいだけれど(若い人にはもはや通じないたとえ)、感覚的なとらえかたもバカにできない。「ガッ!/ふわっ」みたいな表現も重要である。ガッ!とした理屈と、ふわっとした感覚を同時平行で走らせたい。「信なき理解」の破壊性、などと書くとものものしい。モードを変えて、「ガッ!(≒理解)」と「ふわっ(≒信)」の話だとすると親しみやすい。というか、体に馴染みやすい。触覚的な翻訳。

こんなふうに感覚ベースでテクストの読みを提示する人は、あまりいないなと思う。頭が悪そうだからか……。「ガッ!」はするどくてかっこいい。でも、するどいって、刺さると痛いやん。気持ちいいときもあるけど。

ひとりでブログなんか書いていると、ときどき気持ちよくなってしまう。没入的にガガガッ!と。わたしの場合はそこで、「気持ちよくなってはいけない」と推敲を重ねる。べつの方向へ舵を切る。読む人にとってはたぶん、気持ち悪いから。

だけど、著者が気持ちよくなっちゃってる気持ち悪い文章にも魅力はある。「気持ちよさを均そうとする」ってのは自分の弱点でもある。陶酔できない。自分については、つねに批判的になってしまう。ブログのタイトルが「写真機をもつて乱酔を」でも、あまり酔っていない……。看板に偽りあり。

いや、酔っているのかもしれない。初手から妙なことばかり考えているし。「日記」としつつ、具体的な出来事はほとんど書かないし。どうかしているのは確か……。わからないな。

自分は、何につけてもわからなくなりがちだ。まず「何もわからない」という渺茫たる気分が最初にある。大海原のような。そこへ「わかる(かもしれない)」という、小さなブイを浮かべ、たゆたっている。油断するとすぐ、「わからない」の波にさらわれてしまう。

「問い」は危険、と書いた。「信なき問い」もまた破壊的だろう。晩年にちょっとおかしくなってしまう学者なんかは、「信なき問い」に我が身をさらしてきた人であるかもしれない。「信」には、「それ以上は問えない」という歯止めの機能がある。個々の領分を見極めるセンスみたいなもの。畏れの感覚。あなたはあなたの、わたしはわたしの輪郭を保つための。

「不信の停止(willing suspension of disbelief)」という概念がある。サミュエル・テイラー・コールリッジが確立したとされる。フィクションに親しむためには、それを疑わないことが基本的な条件となる。どーせ、ぜんぶ嘘だ!なんて思っていたら虚構に逢着することはかなわない。それどころか、生きることさえままならないだろう。

「信」というのは、それぞれの人がそれぞれの仕方で身にまとっている虚構のことかもしれない。「それ以上は問えない」という、世界観の枠組み。いちばん外側の大枠。「わかられてたまるか」は自らの虚構の枠組みを守ろうとする防衛機制か。

そういえば、だれだったか文芸評論家が「胡蝶の夢」を分析して、こんなことを書いていた。以下、読書メモより。

 

 蝶であったときには、荘周は自分が本当は人間荘周であって、ただ蝶になった夢をみているだけではないか、と疑うことはできなかった、ということを忘れている。自分が、本当は蝶であって、荘周になった夢を見ているだけではないか、と疑えるのは、彼が荘周であるときに限るのである。
 いいかえれば、自分に起こっていることを疑いえないということが夢を構成するのであり、それを疑いうるということが現実を構成するのである。

 

出典はメモっていなかったので失念。

夢は疑えないことによって構成され、現実は疑いうることによって構成される。「信」は疑えないが、「理解」は疑いうる。現実はついに、夢に及ばない。そう読み換えてもいいのかもしれない。「畏れの感覚」とは、あなたが生きるフィクションへの畏敬。人の物語に土足で上がらないこと。

 


 

「ふわっ」と「ガッ!」が同居した写真。

できるだけ世間とは関係のないことにうつつを抜かしていたい。このごろそんな気分が加速している。「うつつを抜かす」っていいことばだ。人生はからっぽである。今日はこんな詩を読んだ。

 

巻貝の奥深く

巻貝の白い螺旋形の内部の つやつや光ったすべすべしたひやっこい奥深くに ヤドカリのようにもぐりこんで じっと寝ていたい 誰が訪ねてきても蓋をあけないで眠りつづけ こっそり真珠を抱いて できたらそのままちぢこまって死にたい 蓋をきつくしめて 奥に真珠が隠されていることを誰にも知らせないで 

 

高見順『死の淵より』(講談社文芸文庫、p.75)

「詩人は自分の世界観――それは一種の迷宮だと思いますが、その外に出ていかなくてもかまわないのです。そして、そのことに耐えることができるものだけが、詩人の資格があるというわけです」とは、高橋源一郎の見解。詩人は他者を必要としないのだと。そうだとするなら高見順の詩「巻貝の奥深く」には、まさしく詩人の願望が凝縮されている。

なれるなら、こういうものにわたしもなりたいと、願ってやまない。詩人になりたいわけではない。きれいなものを抱いて、誰にも隠して、ちぢこまって死にたい。ひっそりさびしく。

きれいなものとさびしいものは、似ていると思う。とても。

 

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