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日記997

 

「やろうとすればするほどできない」という現象は、身に覚えがある人も多いと思う。たとえば、誰かに大切なことを伝えようとするとき。それがなかなか言えない。好きな人への告白なんか、よくネタにもなる。そういえば、R-1グランプリで見たっけ。

 

 

 

「結婚してください」がなかなか言えず、ギャグを連発する人。Yes! アキトさんのネタ。なんとなく、こういうことかなと思う(どういうこと?)。自分の性質がこのようなものだと。「企図の感覚がない」と前回の記事に書いたのは気取っているわけではなく、何かをやろうとすればするほどそのプレッシャーから身をかわそうとする力も強く働きおかしなことになるからです。「け、け、け、ケバブの肉は渡さんぞ~!」みたいな。「結婚してください」と言いたいだけなのに。

「企図振戦」と呼ばれる震えの症状がある。自分はそれっぽい症状が出やすい。といっても病的ではない。手指の軽いどもり、みたいなもの。吃音もある。言おうとすればするほど言えない。その都度、迂回ルートを探す。ことばの迂回路探しは、吃音者あるあるだと思う。

全身がどもりやすいらしい。誰でも緊張すれば体が不如意になるけれど、わたしの場合はその閾値が低い気がする。三十路過ぎてようやく気がついた。以前から、「やる気があってはいけないタイプ」と自分のことを規定していたものの、体のありようとは結びついていなかった。「やる気のなさ」は単なる思惟でも主義でもなく、もっと具体的なところからきている。体がやる気を受け付けていないのだ。「結婚してください」と言いたくても、「け、け、け、ケンタッキーフライドチキンをヒヨコに見せつけよ~!」みたいなことになるから。

とくに緊張する場面でなくとも、企図するとできない。いちいち体を騙す必要がある。それは朝、目覚めて起き上がる時点から始まる。「起き上がらないといけない」と思ったらもう、起き上がれない。体に知られないように、それをしようと悟られないようにそれをする、といった仕方ではじめて起き上がれる。知らんぷり。つまり「何も考えない」というか、「自然に」というか。

問題は意識なのか。意識が痙攣を起こしやすいのか。そうかもしれない。「体を騙す」ではなく、「意識を騙す」としたほうが、いや、どっちでもいいか。かんたんに腑分けできるものではない。要するに、意識と体とのフェイント合戦みたいな毎日なのである。

あれだ、人混みを歩く場面を想像するとわかりやすい。「どうやってかわそうか……」などと考えていたら、人混みの中は歩けない。無心にダイブしてひょいひょい流されれば行ける。その感じ。これがあらゆる身体動作についてまわる。とかく、考えていたら何もできない。人一倍、無心にダイブしてひょいひょい流されていないといけない体の仕様になっている。

流れに乗っていれば問題ないため、絶えず自分を乗せる必要がある。乗り物がほしい。自己を自動化するための、なにか「入る」もの。外部の力。音楽か、あるいは明確な役割があると動きやすい。パッチを当てるように、役に入っておくとよいのかもしれない。これと関連することは、伊藤亜紗の『どもる体』(医学書院)に書いてあった。いちどさらっと読んだきりで、ほとんど忘れている。こんど読みなおそう。


 

自分の人生全体が「どもる体」と紐づいている気がする。あるときから、すべてにおいて「どうでもいい感じの距離感」を重視するようになった。それも、「どもる体」への対策として読み直せる。「しょうがない」ということばの軽みに惹かれるのも、「どもる体」を流すためだと思う。

「わたしはそんなにわたしじゃなくてもいい」みたいなことをブログに何度か書いている。これも、どもりと関連する。自己をほどいて、すこし他律化しないと動けない。抽象的なようで、具体的な話だった。人混みを歩くとき、そんなにわたしは歩いていない。歩かされる。

When you wish upon a star
Makes no difference who you are

星に願いをかけるとき、あなたが誰かは関係ない。こういった歌詞を好ましく思うのも、どもる感受性かもしれない。無関係性を志向している。主体をあやふやにする方向性。意識の網の目から逃れたい。

 

夜空を仰ぐわたしの姿は透明で、誰でもなくて、誰でもあって、もうこの世にいないような気さえする。あるいは、どこにいてもいいような。とてもさみしい。でもそのさみしさがうれしくもある。――日記737


2020年8月の記事より。読み返すと、なに言ってんだこいつと他人事のように思う。変わらないな、とも思う。「さみしさ」は自分にとって、悪い情調ではない。澄み切った感覚。つなぎ目がなく、まっさらでからっぽである、そのときもっとも自由に近い。どもりは、「つなぎ目」に端を発する。そこでつまづいてしまう。敷居をまたげない。動けなくなる。だからこう……なんというか、シームレスにぬるぬる生きるしかないのだなと観念する。どういう生き方か知らんけど。

井坂洋子のエッセイ集『黒猫のひたい』(幻戯書房)にあった、「幸福な死のイメージ」を思い出す。

 

私には幸福な死のイメージがひとつある。それは、学校時代、一人だけ早引けして、みなが教室に入り、静かになったひろい校庭を横ぎる感じだ。校門を出て、ポカポカ陽のあたる道を行く。左右の生垣の、葉の繁みに目をやりながら、ひっそりした住宅街を歩いている。たった一人だなあと思う。みんなとはもう関係がなくて、自分だけの視界をおずおずとひろげる。よけいな声に煩わされることもなく、鳥の声などが空から降ってきて。誰からも採点をされず、身を隠すようにして駅へと向かう。(p.115)

 

ぽかんとした解放感がある。「みんなとはもう関係がなくて」。いるようないないような、するようなしないような、ないようなあるような。亡霊のように佇む時間は息を継ぎやすい。それがわたしのなかで、写真を撮ること(=ひとりでひたすら歩くこと)、本を読むことにも通じている。


 

7月1日(土)、雨。介護施設に入居している父方の祖母と面会。このあいだ祖父と会った、開口一番そんな話をしてくれた。祖父はもう亡くなっている。せっかく会えたのに、お別れしてしまったと祖母はうつむいて残念がる。夢の話ではない。「あの人がいた」と語るその口ぶりは、確かにいたのだろうと思わせる説得的なものだった。

ともに面会した父は「幻覚だ」と一般化する。その距離のとり方もわかるけれど、わたしとしては「幻覚」と言い捨てたくない。そっくりそのまま受け取ればよいのではないか。理に落とさなくていいと思う。ひとりの真実を、そのままのかたちでとどめたい。素敵な感情の出来事だし。野暮だよ。

なんら解釈しない。
それって、むずかしいのかな。 

たぶん、「触れられない」という思いがわたしの基底にある。誰にも触れられない。亡霊としての自己感覚とも通じる。他人のことは了解できない。言ってしまえば、人間みんな幻覚に惑わされている。人のことは言えない。それぞれの幻覚をたいせつにしよう。みながバラバラに感動し、それを伝えられずに死ぬのだ。やさしいようで、つめたいのかもしれない。やさしさには、つめたさもふくまれるか。暑中には冷えたものをやさしく感じる。帰りに豆腐とキュウリを買った。


6月29日(木)、晴れ。ことし、はじめて蝉の声を聞いた。夏だ。「美しい」とか、「愛する」とか、親しい人との会話では面映ゆいことばがまっすぐに出てくる。心の風通しがよくなる。素面で酔っ払ったような話もできる。楽しい日だった。


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