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日記1000


1000回目ということで、ふりかえる。1000回に1回だけふりかえるブログ。

文章を書きはじめたのは10年以上前、引きこもっていた時期だった。19歳か20歳かそれくらいのとき。ひまに飽かせ、書きまくっていた(現在はすべて非公開)。記事をカウントし始める、はるか前。最初から数えるなら、とうに1000回は通り越している。

 

“1時間に一回は「しにたい」と思う。ひどいときは2秒間に4回半ひねりくらいして着地まで綺麗にまとめることができる。しかし、いくら綺麗にまとめても、採点者は誰もいないのだ。こんなに綺麗にまとまっているのに。そこがひきこもりのいちばんつらいところである。”

 

初期の日記より。深刻なのか、ふざけているのかよくわからない。このような精神性は変わっていない。いや若さゆえか、初期のほうがずっとふざけていた。たとえば、いたずらに「尿道院放尿堂」とだけ書き込んでみたり。その翌日には、こんなことを書く。


“もしわたしがきょう自殺していたら、この「尿道院放尿堂」という最後の書き込みを見て、家族はなにを思っただろう。あるいは、わたしがなにか凶悪な事件を起こし、その犯行直前に書きつけた言葉が「尿道院放尿堂」だったとマスコミが知ったら、この事実はちゃんと報道されるのだろうか。報道されるとしたら、「尿道院放尿堂」という言葉をめぐって、なにか色々本が出版されたりするのだろうか。たとえば香山リカさんはどんな風に分析してくれるのだろうか。気になる。気になるあまりうっかり犯罪に走りたくなるが、こらえたい。もう大人だし。”

 

いまよりずっと愉快な日記だったと思う。「古き良きインターネット」という感じ。知らず知らずのうちにすこしずつ禁欲的になってしまった。思考が痩せた気がする。シュッと。体もこの頃と比較すると激痩せした。

日記を書き出した当初は、スポーツ中継をよく見ていた。野球とサッカーの話が多い。といっても、試合の内容をうんぬんするものではない。どうでもいいことばかり書いている。

 

“楽天×オリックス戦を見る。オリックスの先発ピッチャー木佐貫はわたしの中では「髭が妙に青いひと」という印象があるが「木佐貫洋 髭 青い」などで検索してもそうした話は見られないので世間的には木佐貫の髭の青さはあまり評価されていないみたいだ。ガレッティ先生は「黒々とした森に棲む黒色の獣は黒い」という名言を残したが、これをもじって「青々とした髭をもつ青色の木佐貫は青い」と言うこともできるだろう。意味はわからないが。わたしは、それくらい木佐貫の髭は青いと思っている。でもベンチに下がるとあんまり青くないんだよね。マウンドに立つと一気に青くなる。そんな木佐貫の投球を3時過ぎまで見ていた。”

 

いちおう「野球の話」でも、焦点は野球の試合に向けられていない。サッカーについても同様で、試合自体を楽しむ態度ではない。ひとつ引用する。

 

“夜はサッカー中継を見ていたのだが試合終了の笛が鳴った瞬間、実況アナウンサーの絶叫、「あーーー!!蹴る前に終わったーー!!!」には笑った。まったく表情筋を動かさない生活が続いていたので、笑いすぎて顔が痛くなった。今でも思い出すとニヤけてしまう。 

アディショナルタイムも超過しているギリギリの時間帯に与えられたフリーキック。誰もが蹴ってから終わるものと思い、かたやラストプレイに期待をかけ、かたやディフェンスに望みを託し、会場の盛り上がりも最高潮に達する中、その前に終わらしちゃうという主審による渾身の肩透かし。そして生まれたあの名実況、「あーーー!!蹴る前に終わったーー!!!」。

 この「蹴る前に終わったーー!!!」を着ボイスにして売ってほしい、と思う。目覚ましにしたい。元気になれそう。他にもグッズ展開してほしい。「蹴る前に終わったーー!!!」Tシャツとか「蹴る前に終わったーー!!!」タオルとか作ればいいのに。「蹴る前に終わったーー!!!」焼きとか。ご当地「蹴る前に終わったーー!!!」とかあったらすごく欲しいわ……。”

 

思い出せないが、そうとうおもしろかったのだと思う。テンションが高い。自分なりの観点で楽しんでいる。余談が好き。勝ち負けやプレイ内容にあまり関心がもてない。それより、もっと取るに足らない部分を拾いたくなる。生来の性分なのだろう。おかげで野球自体に関心がなくても、野球中継を楽しめる。サッカー自体に関心がなくても、サッカー中継を楽しめる。あらゆる物事に対して、そんなふうに見ているふしがある。浅くて身勝手な楽しみ方をしがち。失礼千万な人間だ。

言ってしまえば、社会性がないのだ。スポーツの勝ち負けは社会的な、選手をはじめとするみんなの関心事だけれど、そこにあまり乗れない。社会参加していない。それ以外のごく個人的な関心を寄せることならできる。木佐貫の髭についてや、「蹴る前に終わったーー!!!」という実況のおかしさについてなど。

社会的にフォーマルな関わりはもてないが、個人的でインフォーマルな関わりならもてる。「どのチームが好き?」などと聞かれても困るが、「木佐貫の髭が妙に青く見える」という話ならできる。ただ、世の大多数の人々は逆に、木佐貫の髭に関心がない。好きなチームや選手の活躍に関心がある。

一事が万事この調子なもんだから、話がすれちがう経験を幾度となく味わってきた。いわゆる「天然」と言われる。しぜんと発言も慎重になる。20代の半ばごろから徐々に社会性が身について勝ち負けの話もできるようになった(横浜べイスターズを応援しています)。

というより、上記のような「ズレ」への対策が打てるようになっただけかもしれない。基本的な認識のあり方は変わらない。ベイスターズについても、あるときから対策的に「そういう設定にしよう」と決めた。そういう設定にすると、だんだんほんとうにそうなる(「ほんとう」とはなんだろう)。適当に設定を増やして「社会人」になった。カテゴライズしやすいようにふるまう感じ……。しかし、やはり、なりきれない部分もある。そこはせめて笑いに落とす。

人懐こい気安さと、人を遠ざける気難しさが極端なかたちで同居したパーソナリティだと思う。楽しそうでも、決定的にひとりだ。同世代の誰よりも、ひとりで過ごした時間が長い。そこにおいては自信がある。あまりにひとりでぼーっとしていたせいで、ある時期の記憶がない。記憶は語られ、共有されなければ持続しない。人間は、ひとりきりで保たれるようにはできていない。

文で説明するより、声にふれると書き手の「感じ」が一発でわかると思う。音声配信を貼っておこう。趣味で知らない人の音声配信をたくさん聞くけれど、ひとりで笑っている配信者はあまりいない気がする。有名人でパッと思いつくのは菊地成孔くらいか。酒に酔って笑い上戸になる人なら身近にもいる。

 

声を聞いて、著者の「感じ」がつかめると文章も読みやすくなる。自分の経験から、そう思っている。その「感じ」によって意味を補完できる。話の内容より、言外の息づかいが強力な補完材料になる。声色をはじめ、抑揚や発声の仕方。身にまとう諸々のノイズ。たいていの文章では、その人のノイズが削除されてしまう。会って話せば、受け取れるノイズはさらに増える。

もともと本を読んだり文章を書いたりするタイプの人間ではないと、自分では思う。はけ口がこれだっただけだ。なにもしていないとき、そのなにもしていない状態をはぐらかすのにもっともフィットする行為が読み書きだった。なにもしていないけど、なんかしている気になれる。でも実質、なにもしていない。

とはいえやっているうちに、読み書きをする体力がつくられてしまった。かといって、読み書きが「できる」なんて勘違いはしない。「なにもしない」にもっとも近い行為としての読み書き。「できない」からこその読み書き。「ない」から始まる。その出発点は忘れない。写真も似ている。「なにもしない」に近い行為。「しない」と「したい」の矛盾から生まれている。無と有。客体と主体。どちらにも与せず、あいだの緊張関係を保っていたい。

それはさておき。過去記事を読むと、あきらかに文体が変わった。


“きょうあったことは、記録してはいけない記憶のような気がして、とくに書かない。

十年来の仲のいいともだちとの最初のコンタクトみたいな、「あれ?こいつとどうやって仲よくなったんだっけ?」っていう入り口のわからない最良の出会い。そんな出会いが、きょうはあったような気がして、これはきっと、記録してはいけない記憶。ほんとは「記録してはいけない記憶」って言いたかっただけで、そんな出会いはないよ。”

 

こんなキモくてウザい書き方、もうできない。「日記7」より。2016年9月だから、7年前。まいにち更新していたころ。どの記事も、なまっぽいキモさがある。読み返すと冷や汗が出る。「ウワアアア」ってなる。別ブログの「日記514」までは非公開にした。ここ、blogger は「日記515(2018年4月)」からはじまる。 

bloggerの初期をふりかえっても、現在とはちがう。5年前は、「いいことを書こう」「おもしろくしよう」という意識が透けて見える。拙いけどがんばっている。これも冷や汗もの。いまは投げやりな心境なので、更新もとどこおりがちである。拙さは変わらない。向上心がないぶん、悪くなった。しかし、やめることはない。すべてどうでもよくなってからが本番だと思う。

文体の変化は、基準の変化だろう。過去の自分に対すると、「そこまで書いちゃうんだ」と感じる。個人情報ではなく、感情の話。削ぎたくなることば、いまでは使わないことばも多い。「どこまで書いて、どこまで書かないか」の基準線が自分のなかで厳しくなった。書かないことが増えた。いま読むと話の流れがわからない記事もある。ことばの流路というか、脳味噌の回路網が変わったのだろう。

写真も変わった。変わっていないようで、ふりかえるとぜんぶ変わっている。がらりと。「あんがい変わっていない」という結論に至るかと思いきや、かなり変わっていた。だいいち、ここ数年で生活環境が激変している。きっと、そのせいもある。生活の細かいところは書かない。それは日記なのだろうか? ずいぶん前から、もはや日記ではない。

まあいいや。たぶん1日単位でも自分が思うより自分の変化は激しいのだろう。他人も然り。人って変わるんだね。面倒になってきたのでそろそろ終わろう。よく1000回も書いたものです。一銭にもならないものを。めでたしめでたし。


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