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日記1002 心地よさ


秋の夜風があまりに心地よくて窓を開け放したまま眠らずにいたいなと思いながらうとうとしていた。散歩に出れば虫の声を聞きながらどこまでも歩きたくなる。帰りたくない。夜が終わってほしくない。「心地よさ」は健康的だと思う反面、ここにいつまでもとどまりたいあるいはこのままどこかへ消えてしまいたいという病的な感性も賦活する。心地よければよいほど。土曜日の夜、公園の隅っこで楽しそうに語り合う若い女の子ふたりを見かけた。スマホで誰かと話しながら川辺りをぐるぐるほっつき歩く若い男の子もいた。酔っ払って大声で笑う年配のおじさん集団も。

10代のころ、「大人になればこんな思いは消えるはずだ」と予想していた「思い」がことごとくなくならない。いつまでも死ぬのはこわいし、人がこわいし、朝がこわい。学校なんてもう行かなくていいのに、「学校に行きたくない」という思いは消えない。家にいるのに「帰りたい」と思うのにも似ている。どうしたことか。

福祉施設「よりあい」代表の村瀬孝生さんが書いておられた「多世代人格」ということば、これをときおり思い出す。“蓄積された時間のどこを切っても「そのときのわたし」がいて、体の中には「すべての世代のわたし」がイキイキと生きている。年輪のように。僕たちは多世代人格なのかもしれません。”

伊藤亜紗・村瀬孝生『ぼけと利他』(ミシマ社、p.60)より。認知症のお年寄りと接するなかで見出された洞察だけれど、村瀬さんが「僕たちは」と語るようにすべての年代に言えるのだと思う。わたしたちは陰に陽に過去を引き連れながら生きている。どうしようもなく。自分が思うよりも、ずっとあやふやに。

「心地よさ」とは、あやふやさだと思う。湯船につかると体の輪郭があやふやになって心地がいい。信頼のおける人と触れあうときも、動物とじゃれあうときも、体はあやふやに溶ける。どちらがどちらに触れていて、触れられているのか。そんなことは気にならない。夜の暗さ、涼しい気温、どこまでもつづく虫の声、これらの条件もあやふやな身の内を許容してくれる。心地よさとは、あやふやさ。それがゆえにともすれば、おぼれてしまう。

あやふやな時間に、ふと思い出すことがある。といっても、具体的に表現することはできない。それはリチャード・ブローティガンが「糸くずの世界」と書いていたような、形にならないことがらの群れとして浮かんでは消える。

 “ことばで表わすことのできない感情と、ことばでよりはむしろ糸くずの世界をもって描かれるべきできごとに、今夜のわたしは取り憑かれている。
 わたしの子供時代のかけらたちのことを考えていた。それらは形もなく意味もない遠い生活のかけら。ちょうど糸くずのようなことがらなのだ。”

『芝生の復讐』(藤本和子訳、新潮文庫、p.173)より。そういえば、落ちている糸くずやそれに類するくずの写真をたまに撮る。ブローティガンのことばをリフレインしていたのかもしれない。と都合よく紐づけてみる。たぶんちがう。

 


 

およそあらゆる記憶は、このようなものではないか。あいまいなものをこねくり倒して無理やり言語化している。そんな気がする。なにも鮮明じゃない。形も意味もはっきりしない道端のゴミくずに心からの親しみを覚える。どうしてかはわからない。

意味はいつも、なにか結びつこうとする。そういう働きが煩わしい。と書きつつ、いまもこうしてなにか結びつこうとしている。さいきん何年ぶりかに北野武の映画『ソナチネ』を観た。人間が静かに死んでいく。泣きわめいたりしない。ここにも親しいものを感じた。『ソナチネ』で描かれる「死」は敵であり、かつ友人でもあった。


それがもうひとつのはじまりのように感じられるのは
     なぜだろうか
すべてはまたべつのことにつながっているのだから、
     もう一度
       わたしはやりなおそう
ひょっとしたら、なにか新しいことがわかるかもしれない
ひょっとしたら、わからないかもしれない
ひょっとしたら、前とぜんぜん違わない
     はじまりかもしれない
ときは早くたつ
     わけもなく
またはじめから
     やりなおしなんだから
わたしはどこへも行きはしない
これまでいたところへ
      行くだけなのだから


藤本和子『リチャード・ブローティガン』(新潮社)のプロローグに引かれた詩。遺体のかたわらに落ちていたという、ブローティガンの遺稿のひとつらしい。そばには、ウィスキーの瓶とピストルもあったと。藤本氏はこう語る。

“死はいつもかれのそばにいて、友人のようでさえあったが、同時に死は敵でもあっただろう。かれは死という名の友人のところへいったのか、それとも悪霊のような敵だった死にねじふせられてしまったのか。”

友人としての死、敵としての死。ここを読みながら『ソナチネ』を思い出した。あの映画の主人公、村川の話として読んでもそんなに違和感がない。文脈の掛け違えだけれど、自分のなかで妙に腑に落ちた。「これまでいたところへ/行くだけなのだから」。

いつ終わってもいい。これがブローティガンの魅力と、村川の魅力の共通項だと思う。いつ終わってもいいと思っている。なんどきも。いつはじまってもいい、にも通じる。「あんまり死ぬのこわがるとな、死にたくなっちゃうんだよ」。「終わってほしくない」はやがて、「いつ終わってもいい」に逢着する。

 

 

日曜日、友人と墓地を散歩した。猫たちが跳ね回っていて、楽園のようだった。傘をささずに済むていどの雨が降っていた。肌寒い。今夏の暑さが嘘のような気温。墓地から帰りながら、「むかし、ガラガラのカレー屋で食事しましたよね」と友人に確認した。「あれは夢か?」という疑惑が自分のなかで持ち上がっていたから。確認がとれてよかった。夢ではなかったみたい。人のいない、ひっそりとしたカレー屋さんだった。

「だれかとの記憶は確認がとれるけど、ひとりきりだと夢と区別がつかないね」と話した。自分で言ったことをしみじみ反芻する。誰とも共有していない、記録もしていない過去の記憶は夢と区別がつかない。情報も遮断したガチのひとりぼっちだと、暑いも寒いも自信がなくなる。

たまに、「この世でうんこをする人間は自分だけではないか?」と妙な疑問も浮かぶ。これも共有しないせいか……。素朴独我論的な感覚。みなさんうんこしてますか。

墓地の帰りに立ち寄った喫茶店で、近くの席の女性が楽しそうに恋愛の話をしていた。「自分から不安になりたくて、不安なことを検索しまくる」のだと。不安がないと不安なんだって。おもしろい。彼を想って不安だと安心する。楽しそうな合間にときどき、溜息のようなことばも混じる。「不安だと安心する」って、するどい。

そんな話を聞いたり聞かなかったり、友人と話したり話さなかったりして過ごした。頼んだ紅茶とケーキがおいしかった。窓際から道行く人々を眺めていた。傘をさしている人、さしていない人、ちょうど半々ぐらい。あやふやで心地よい夕暮れだった。夢ではないはず。


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