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日記1005 


「かわいそう」のひとことが言えない。それゆえにかれのことばはあんなにも重苦しいのだと、山形浩生が立岩真也について評していた。言えないことばを迂回するために呻吟する。そういうことってある。他人の口論を聞きながら、この人は「寂しい」が言えないのだと感じたり、「助けてほしい」が言えないのだと感じたり……。人はそうかんたんに弱くなれないし、弱い者だとみなされたくもない。自分をかえりみてもそう思う。

ということを立岩氏の訃報に触れてなんとなく想起していたのだけれど、もうずいぶん日が経ってしまった。ことばの「言えなさ」は、傍から見れば「なんでそんなまどろっこしいことを?」と思われがちなのだろう。まどろっこしさは、その人の「品」をかたちづくるものでもある。品性に重きをおいた語り口は迂遠になりやすい。丁寧なラッピングみたいに。ともすれば「過剰包装だ」と邪魔っけにされてしまう。

もちろん品はあったほうがよい。しかし、品価を高め過ぎると受容されづらくなる。大事にすればするほど排他性を帯びる。これはたぶん、どんなことにも当てはまる。「大事なこと」とは裏を返せば、価値の高い「排他的なこと」でもある。高級品には手が届かない。プレゼントされても重くて引いてしまう。逆に、安いものは流通しやすく受容もされやすい。

いつか養老孟司が漫画に関するインタビューで、こんなことを述べていた。

 

漫画のいいところは、漫画だと言った瞬間に、みんな「しょせん嘘の世界だ」とわかることです。西洋の町では、立派で大きな建物がふたつあります。教会と劇場です。教会は神様がいるところ、劇場はお芝居をするところ、いずれの場所でも、起こっていることは現実ではありません。“真っ赤な嘘”であることが保証されている装置は非常に大切。  

人ってややこしいんですよ。嘘という枠に入らないと、本当のことが言えないんです。人は、その場所にいて初めて、本気で泣いたり笑ったりできるんです。日本の場合は、その場所が漫画なんです。

藤子不二雄A氏「漫画を描くことを職業だと思いたくない」|NEWSポストセブン


「嘘という枠に入らないと、本当のことが言えない」という指摘。ここで言われている「嘘という枠」は、アジールのような特殊な領域のことだろう。既存の価値観がいったんチャラになる場所。そこにおいて初めて人は、本気で泣いたり笑ったりできるのだと。

どうあってもいい自由領域のなかでこそ、たいせつな感情をあらわせる。「嘘」は心を守るためにあるのだと思う。心の輪郭というか。わたしたちの大枠はきっと、嘘で守られている。「あなたは弱くない」ということばの傘に守られて初めて、すなおに弱音を吐ける。みたいな心理って、あると思う。そうすれば弱音を吐いても、絶対的に弱くならない。ほんとうにややこしい。

「言えない」が生じるのは、嘘に守られていないから。口にした瞬間、ほんとうになってしまう。その一語に主体が押し込められ、身動きがとれなくなる。そう思うと容易に口にできない。「かわいそう」と言われると、かわいそう以外の何者でもなくなってしまう。そんなことばの軛にあらがって考えつづけたのが立岩真也だったのかもしれない。

良いも悪いもない「唯の生」や、「人間の条件 そんなものない」みたいな考え方はアジール的といえそう。揶揄ではなく、宗教的な感受性を湛えた人ではないかと想像する。白状すると、読んだことはない。

「好き」に類するポジティブなことばもまた、「言えない」に陥りやすい。なんでもそうだけど「ひとつしかない」と思うと、すごくこわい。養老氏が「非常に大切」と述べる「嘘の保証」とは、「それ以外」の担保なのだと思う。命綱のような。残機の保証。ひとつではない可能性が担保されているからこそ、思う存分そうであると言える。反復可能性の担保、というか。「いったん免責されることで引責できる」みたいな議論と近い。

さいきん読んだ阿部公彦『事務に踊る人々』(講談社)に、三島由紀夫と太宰治のエピソードが載っていた。三島が太宰に面と向かって「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と言い放ったという。対して太宰は「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と返した。阿部氏はそれを、「絶対」と「絶対からの漏れ」ということばで分析する。


“三島は懐に抱えてきた一言をストレートに言いたかった。「絶対」の言葉として提示したかった。彼は太宰を苦手とし、嫌っていたのだ。ここでは言葉と内容がほぼ一致している。ところが、太宰はそんな三島の「絶対」の言葉を、「相手に対する慮り」に従属するような「人間関係的な言葉」に翻訳してみせたのである。三島の「きらい」は、字義上は「きらい」とは言っているものの、行為としては違うのではないか。太宰本人を前にしての「きらい」という言葉は――行為という視点を持ち込めば――逆にその本人に愛情表現するような、つまり「好き」を隠し持った「きらい」となりうる。太宰の呪縛に引っ張られるからこそ、三島は「きらい」と言うことである種の行為を果たさざるを得なかったのかもしれない。少なくとも太宰はこうして三島の一言を、可変的で落ち着かない流動的な言葉へと変換してしまった。” 

 

太宰治らしい逆説だと思う。ことばはそうそう「絶対」になりえない。三島もそれは勘づいていたのではないか。「太宰の呪縛」とはすなわち、自分の「絶対」を相対化してしまう言語の呪縛でもあった。ことばには字義通りの伝達ばかりではなく、そこから逃れようとする、壊れようとする力も備わっている。三島は「言えない」を恐れず、「絶対」を信じて「それ以外」を駆逐したかった。でもそれは、かなわなかった。

「事務」というお堅い手続きのなかにも、「漏れ」は生じるのだと阿部氏は書く。


 “事務は重い「絶対」を背負っているが、まるで愛にあふれる人間のような声をも隠し持っているのだ。というより、事務が暴力的なまでに「絶対」だからこそ、そこには「漏れ」としての善意の人が必要となる。この「絶対からの漏れ」を処理するための制度が事務には用意されてきた。それを本当の意味で担えるのが、〈事務能力のある人〉なのだろう。彼らは自在に事務から漏れ出すことができる。”

 

現代社会はだいたい事務の動力でまわっているけれど、「絶対からの漏れ」という「それ以外」がなくてはあまりにつらい。しかし、なかには三島のように「絶対」を希求する破滅型の人もいる。逆に、事務の網の目から漏れすぎても破滅する。太宰は漏れすぎだったのではないか。事務はめんどくさいが、社会生活のかたちを保つために必要な形式でもある。文句を言いながらも、適当に付き合っていかなくては。って、なんの話だっけ。

いや最初からなんの話かよくわからない。戻るべき場所がわからない。

 

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