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日記1006


11月11日(土)

友人に誘われ文学フリマへ。混雑っぷりを想像すると自分ひとりではとても行く気になれなかったため、誘ってもらって感謝している。行ったら行ったでそれなりにたのしい。

いくつかのブースで「podcast聞いてます」「ブログ読んでます」などと伝えると、共通の反応が返ってきた。いわく、「だれが聞いている/読んでいるやらわからない」。わたしも先日、横浜の古本屋さん雲雀洞で同じことを口走った。店主氏に「ブログ読んでます」と言われ、話の流れで自嘲気味に「だれが読んでるのかぜんぜんわからない」と。

何者でもない位置から、何事かを書いている。「何者でもなさ」がおそらく、受け手のわからなさにも通じている。社会的な肩書から、ちょっと離脱した隠居先と位置づけている。逆に言えば、何者でもありうる。もしかしたら文フリで出会った方々も、そういう感じなのかもしれない。何者でもなく、何者でもありうる。未規定のやわらかい部分を切り出している。まだ踏み固められていない自己の未踏域、みたいなところ。

ふたり出版社、点滅社のブースで「どこにいても死にそう」というちいさな冊子をもらった。主宰のおひとり、屋良朝哉さんが書いている。11月下旬に発売する、『鬱の本』の販売促進のためにつくられたもの。「どこにいても死にそう」をペラペラめくりながら、屋良さんに「『鬱の本』、買いますね」と伝える。返ってきた「ありがとうございます」のひとことには、いくつもの感情が滲んでいたように思う。やわらかい方だった。それだけに、触れると滲みやすい。勝手な印象。じゅわっとしたものを浴びた気がする。

「どこにいても死にそう」に目を通して、オルガ・トカルチュクの『優しい語り手』(岩波書店)を思い出した。「やさしくなりたい」と屋良さんは書いている。やさしさとは何かを問うとき、決まってトカルチュクを思い出す。


 “わたしはフィクションを書いています。しかしけっしてなにかをでっちあげているわけではありません。書いているときは、自身の内面のすべてを感じなくてはなりません。本に出てくるすべての生き物と事物とを、自分を通して放出しなければなりません。人間も人間以外も、生きているものも命を与えられていないものもすべて。物も人も近くから、最大限に厳粛な気持ちでじっくり観察する必要があります。それをわたしの内にとりこみ、人格を与えるのです。
 このときわたしを助けてくれるのが、まさに優しさです。というのも優しさとは、人格を与える技術、共感する技術、つまりは、絶えず似ているところを見つける技術だからです。物語の創作とは、物に生命を与えつづけること、人間の経験と生きた状況と思い出とが表象するこの世界の、あらゆるちいさなかけらに存在を与えることです。優しさとは、関係するすべてに人格を与えます。それらに声を与え、存在のための時空間を与え、彼らが表現されるようにするのです。優しさによって、ティーポットは口が利けるようになりました。”


「優しさとは、人格を与える技術」「あらゆるちいさなかけらに存在を与えること」。屋良さんが選んだ出版社のお仕事は、その一端を担っているのだと思います。いや出版にかぎらず、ことばを使う人間であれば誰でも「優しい語り手」になることができる。人格はひとりのものではなく、与え合うものです、きっと。ことばを交わすことが人格の支えになります。むろん、ときには破壊にもなりうる。


 “優しさとは、自発的で無欲です。それは感情移入の彼方へ超えゆく感情です。それはむしろ意識です。あるいは多少の憂鬱、運命の共有かもしれません。優しさは、他者を深く受け入れること、その壊れやすさや掛け替えのなさや、苦悩に傷つきやすく、時の影響を免れないことを、深く受け入れることなのです。
 優しさは、わたしたちの間にある結びつきや類似点、同一性に気づかせてくれます。それは世界を命ある、生きている、結びあい、協働する、互いに頼りあうものとして示す、そういうものの見方です。”


『優しい語り手』より。このごろやさしさに飢えているせいか沁みる。このような「優しさ」を発揮できたらいい、発揮したいと素朴に思う。わざわざ発揮するものでもないか。「自発的で無欲」なのだから。「優しさ」はたぶん、「する」のなかにはない。かといって「しない」でもない。トカルチュクの語る「優しさ」の核は、ひとことで「ないことにしない」。これだと思う。

そのためには、自身の内面を細やかに感じなくてはならない。繊細な手つきで拾い上げる。どんな苦悩も、おかしな空想もないことにしない。しゃべるティーポットがいたって、妖精が見えたってないことにしない。自分に関与する、そのすべてに存在を与える。それには多大な勇気が必要で、きっとひとりでは為しえない。受け手がいなければ。あるいは、「どこかに受け手がいる」と信じなければ。

ないことにしない「優しさ」は、なにもないところから出版社を立ち上げた点滅社の活動に通じるようにも思う。「死にたいなあ」と思いながらも、ギリギリのところで自分をないことにしたくなかった。ないことにしたいと願うことは多々あれど、どうしてもないことにできない感情があった。それを感じとり、かつ掬いとる「優しさ」が点滅社に結実した。「やさしくなりたい」ということばのなかには、「ないことにしたくない」という意志がこもっている。自分のことを、ひいては自分と結びつくあらゆるものたちのことを。そんなふうにも読める。

目当てのブースをまわり、目当てになかったブースもまわり、用意した千円札がなくなって退散。今月は食費をぐぐっと抑える。重たいリュックを抱えながら大森駅まで友人と歩いた。酉の市で屋台がたくさん出ていた。今川焼きをふたつ買って、食べながら歩く。人が多くてなかなか進まない。こういうとき、オノ・ヨーコのことばを思い出す。「道を開けなさい。風のために」。文フリの会場でも頭のなかでリフレインしていた。素敵な一発ギャグだ。

帰宅後にリュックの中身を出すと、思っていたよりたくさん購入していておどろく。紙の塊がドサッと。こんなに買った覚えはない。濡れ衣だと思う。しかし、ひとつひとつ整理するうちに記憶がよみがえった。身に覚えのない怪文書がひとつくらい混ざっていればおもしろかったのに。整理は記憶の蘇生術だと感じた次第。時間をつくって、ゆっくり読みます。


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