スキップしてメイン コンテンツに移動

日記1007


“私が生きた私の人生は、始めもなければ終りもない、一つの物語のように思うことがしばしばあった。私は歴史上の一断片であり、前後の文脈を失った、一つの抜萃であるといった感じをもっていた。” 『ユング自伝2 思い出・夢・思想』

 

11月22日(水)

帰り道、街角で「ラッキースケベくださいよ」と大学生くらいの若い男性が楽しそうに話していた。となりの小太りのおじさんがそれを受けてなにか返す。始めもなければ終りもない今日の断片。前後の文脈を失ったひとつの抜粋。通り過ぎてそれっきり、なんの話だかまったくわからない。まるでユングの人生である。というか「ラッキー」は偶然だからラッキーなのであり、「ください」と請うものではないと思う。ラッキースケベがほしいのなら、みずからのアンテナ感度を高めるほかない。もうすこし偶然をたいせつにしよう。わたしがとなりのおじさんだったら、そう諭すだろう。

また、宮沢賢治は友人の藤原嘉藤治にこう語ったという。

 

“―おれは、たまらなくなると野原へ飛び出すよ。雲にだって女性はいるよ。一瞬のほほえみだけでいいんだ。底まで汲みほさなくてもいいんだ。においをかいだだけで、あとはつくり出すんだな―。
―花は折るもんじゃないよ。そのものをにぎらないうちは承知しないようでは、芸術家の部類に入らないよ。君、風だって、甘いことばをささやいてくれるよ。さあ行こう―。”

森荘已池『宮沢賢治の肖像』

 

なんて感度だ。賢治にとっては、ラッキースケベが日常茶飯事であったと言っても過言ではない。いや、そうなってくるとふたたび「ラッキー」が何かわからなくなる。常態化したラッキーはラッキーと呼べるのだろうか。ラッキーとは不意の僥倖、連続性の裂け目だ。つまり前後の文脈を失ったひとつの抜粋、ユングの人生のようなものである。もしかすると街角ですれ違った彼は、ユングを読みたがっていたのかもしれない。ちょうど鞄に入っていたので、貸してあげればよかった。そうすれば「こいつはラッキー」と思ってもらえたにちがいない。

そういえば今朝、改札口でつかまったわたしはちょうど連続性の裂け目だった。人々の流れを食い止める。通り過ぎゆくはずのものが通り過ぎない。エラー音とともに身体があらわになる。群れから一瞬にしてこぼれ落ちる。あられもなく。スーツ姿の女性が邪魔そうにわたしを避けて行く。彼女は透明感があった。透明感がほしいと思った。透明感のある人なら、こんなときでも透明でいられる。

資生堂のサイトによると、透明感のある肌には「内部散乱光」が欠かせないという。内部散乱光とは、肌の角層から入って真皮まで届き跳ね返る光のこと。皮膚の内部で光が散乱するらしい。その光によって透明感が演出される。と書いてみてもよくわからない。

透明感というと、埃が日射しに照らされきらめくようすが浮かぶ。「透明感のある人」とは、光る埃みたいな人。よく晴れた日に、ふとした意識の隙を突いてあらわれる。光の加減が変わるとすべて消えてしまう。その実、埃は舞いつづける。照らされたひとところの断片。まるでユングの人生であり、ラッキースケベのようでもある。

改札でつかまったあと、わたしはたまらなくなって野原へ飛び出した。仕事なんていいんだそんなものは。あたたかい小春日和だった。澄んだ空気。「風だって、甘いことばをささやいてくれる」どころか、気分はもう「なんでもおまんこ」(谷川俊太郎)だと駅を抜け出した。


“ああたまんねえ
風が吹いてくるよお
風とはもうやってるも同然だよ
頼みもしないのにさわってくるんだ
そよそよそよそようまいんだよさわりかたが
女なんかめじゃねえよお
ああ毛が立っちゃう
どうしてくれるんだよお
おれのからだ
おれの気持ち
溶けてなくなっちゃいそうだよ
おれ地面掘るよ
土の匂いだよ
水もじゅくじゅく湧いてくるよ
おれに土かけてくれよお
草も葉っぱも虫もいっしょくたによお
でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ
笑っちゃうよ
おれ死にてえのかなあ”

 

ああ、この人も透明感のある人だ。性が放射性物質のようにいたるところに散乱している。そこへ同一化しようとする。自分の体を厭うように。そう、あなたは死にたいのだと、言ってあげたくなる。親しみを込めて。自分自身、誰かにそう言ってもらいたいのだと思う。あなたは死にたいのだ。そんなことないようにふるまうけれど、もう何年も前から、いつも、ずっと。不能である。

「最初はちいかわが好きだったのに、無理してキャラつくってる」。飛び出した野原で、男子高校生が友人と話していた。誰か路線変更したらしい。そいつには是非、「ちいかわが好きなんだろ」と声をかけてあげてほしい。みんなわかってるから。無理すんなよ。べつにちいかわが好きでも、美味いもん食って、いい車に乗って、いい石を拾って、いいパンを投げて、みたいな暮らしはできるから。ちいかわを犠牲にしないで、いいパン投げようぜ。

 



帰宅後、なぜか急にこの曲が聞きたくなった。「2年に一回のペースで聞きたくなる」というYouTubeのコメントに笑う。図星だ。たしかに、2年前に聞いて以来かもしれない。このコメントには同意がたくさん集まっている。わたしも完全に同意する。というより、実際にそうなった。ほんとうに2年に1回のペースで聞きたくなる曲なのだ。とてもふしぎ。

「人生必ずやりなおせる」って、そうそう。人生には始めもなければ終りもないから。断片の集積だからこそ文脈をつくれる。なにがどこにつながるかわからないスリルを味わえる。いつにも増してわけがわからないと思いながら書いていたけれど、そういう話にしておきます。わからないなりに、なんとなく着地できた気がする。ありがとう、「独居房の夜」。また2年後に。

 

コメント