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日記1011


 

言語を固めていく、獲得していく方向性と、言語をなくしていくというか、やわらかくしていく方向性の両者に気を配る。端的にいえば “being(~である)” と “becoming(~になる)” のふたつ。一方向性と多方向性、ともいえるかもしれない。

中井久夫はとにかく “becoming” の人だと思う。相手の身になる。樹木相手でさえ、「樹の身になって」「隣人としての樹をみる」などと書く。ちょっと過剰なほど「~になる」。「徴候」というキーワードにも “becoming” 的なふくみがある。他方で、「~である」を打ち立てる理論的な視座も忘れない。「~になる」ばかりではなく、距離をつける。そのバランス感覚が読み味として快い。

しかし、ご本人は徹頭徹尾「~になる」タイプだと思っていたらしい。高宣良 編『中井久夫拾遺』(金剛出版)に興味深い証言がある。精神科医、市橋秀夫のコラムから引く。

 

 “彼は病者の治療に当たって、内部に入り込み、病者へのエンパシーというよりも、自身と照合を繰り返して描き出していたように思えてなりません。それは同時に病者のみならず治療者をも危機に追いやる諸刃の剣でもあったはずです。初期の中井はそれを回避するために二つの方法を採用したのではないでしょうか。距離とセラピストフッドです。距離を作るために採用したのは風景構成法・なぐり描きでしょう。自分と病者の間に介在させることで安全な距離を保ったのだと思います。彼は私に「みんな私のことが総説を書ける人と思っているけども、書けません。私が見ているのは鳥瞰図ではなく、虫瞰図の世界です」と述べられましたが、近接距離で見ていたというか、寄り添うというよりはほとんど一体になって見ていることを言語化しているという感覚を私に与えます。”(p.91)

 

総説は書けないのだと。「鳥瞰図ではなく、虫瞰図」。「トップダウンではなく、ボトムアップ」と言い換えることもできそう。カテゴリーが先にあり、そこへ事物を当てはめていくような思考様式ではない。自身の具体的な経験から、関係に応じて、相手の出方に応じて、現象に応じてことばを立ち上げる。それを徹底する。あらかじめ整序されたロジックがあるのではなく、目の前の混沌を地道な実験でかき分けていくような物腰。

ラルフ・ジェームズ・サヴァリーズ『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書――自閉症者と小説を読む』(みすず書房)における、自閉症者と定型発達者の思考様式のちがいを思い出す。それは、ミクロな個別性から発する文学的な思考様式と、マクロな「一括り」から発する思考様式のちがいでもある。

市橋氏はこう続ける。

 

 “もちろん彼は統合失調症ではありませんし、アスペルガー障害でもないと断言しますが、サヴァンといわれる天才によくみられる発達上の問題があったと考えています。入力情報に対する過敏性が強いときには往々にして一過性の精神病症状が出ることを臨床で経験しています。私たちやそれ以前の世代では精神科志望者に発病恐怖を持っている人が少なくありませんでした。おそらく発病恐怖をずっと持っていたのだと思います。”(p.92)

 

このような記述にわたしはトップダウン的な思考様式を嗅ぎ取る。ある「一括り」のなかから、彼を探り出す。それは悪いことではなく、むしろおもしろい。そういう見方があるのかと参考になる。たぶん、自分はあまり採らない発想だから。わたし自身、どちらかというと虫眼になりがちなタイプなのだと思う。便宜上「自閉症」だの「定型発達」だの書くのも抵抗がある。「なにも分けられない」という逡巡が絶えない。

それに、いつも抽象的な話をしているようで、その裏には具体的な経験がある。というか、すべては具体的なんじゃないか? などと乱暴に捉えているふしがある。たとえば「宇宙際タイヒミュラー理論」なんかも、よくわからんけどこれを打ち立てた望月新一教授は「宇宙際タイヒミュラー理論」に人生を賭け、宇宙際でタイヒミュラーな現実の時間を具体的に生きたのだと思う。西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」も傍から見れば抽象的で意味不明かもしらんが、言い出した本人は「絶対矛盾的自己同一」と呼ぶしかない現実を生きたのだろう。ぜんぶそんなふうに読む。ひとりの人が生きた現実を探したい。たとえどんなに抽象的であろうが、幻想のようであろうが、通約不能であろうが「その人にとっての生きたリアル」というものがあると信じる。

 

 

ところで、最相葉月『中井久夫 人と仕事』(みすず書房)を読んでいて笑ってしまった箇所がひとつだけある。患者さんから暴力をふるわれそうになったときの中井のふるまい。

 

 “あるときはハンガリー出身の精神科医マイケル・バリントの「地水火風になれ」のように、力を抜いて動かず、自然物のようになった。あるときは相手の利き腕のほうに回り込み、相手の肩を包み込むようなやさしく小さな声で「きみはいま、人生に何度もない大事なときにいると、私は思う」といい、落ち着いてもらった。”(pp.129-130)

 

ここを読みながら「きみはいま、人生に何度もない大事なときにいると、私は思う」が『北斗の拳』のケンシロウ(=神谷明の声)で再生された。「おまえはもう死んでいる」みたいな。まるで勝利を確信した決め台詞のようでおかしい。

中井 「きみはいま、人生に何度もない大事なときにいると、私は思う」

患者 「ひっ! ひでぶっ!!」

という勝手な想像で笑い転げてしまった。また、「力を抜いて動かず、自然物のようになった」という技も想像するとおかしい。自然物て。人間的な気配を消すような技だろうか。どんな修行を経たらそんなことが可能になるのか。バリント神拳を会得すればできるのか。達人の伝説すぎてやばい。 

「自然物のようになった」を真に受けるならば、中井久夫は肉体のありようから文字通り “becoming(~になる)” の人なのだ。エンパシー(共感)どころではなく、 “becoming” という英単語がわたしのなかではしっくりくる。あなたを生きようとする態度。それを可能にしたのはひとえに、文学的素養ではないかと思う。

文学も読みこなす精神科医ではなく、第一に文学の人なのだと感じる。『中井久夫 人と仕事』にも、ちらっとそんなことが書いてあったような。忘れた。そういえば「感銘を受けた言葉」として中井は、ポール・ヴァレリーの『カイエ』から、以下のことばを引いていた。

 

 “人は他者と意志の伝達がはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。
 かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にして――自分自身に語りかけることを覚えたのだ。
 自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。”


このアフォリズムを彼は独自の観点で次のように解する。「私が自分と折り合いをつけられる尺度は私が他者と折り合いをつけられる、その程度である」と。

自分と折り合うことと、他者と折り合うことが分かれていない。そう、それは、分かれていないのだと思う。あなたを生きようとする態度は、自分を生かすことにもきっとつうじている。「その人にとっての生きたリアル」を信じることは、自分の単独的な生きたリアルを信じることと通じている。

めずらしくブログを2日連続更新した。年末は無駄に駆け込みたくなる。ねよう。

 

 

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