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日記1017


交差点。桜まつりの看板を尻目に、横断歩道を渡るこどもたち。5、6人みんな手をあげていた。たのしそう。「みんなで手をあげて横断歩道を渡る」という、ちょっとしたイベント。横断歩道にさしかかるたび、はしゃぎながら手をあげて駆け出す。バンザイする男の子もいた。すこし離れた後ろからぼんやり眺める。話し声が断片的にきこえる。「来週の月曜日から学校だよ」「月曜日ってなん曜日?」「月曜日だよ」。

3月さいごの週末は各地で桜まつりが開催されていた。うちの近所では、まだほとんど咲いていない。引き続き来週も開催するらしい。

2月のある日、とても寒い思いをした。手足の感覚がなくなるほど。その日の記憶を引きずってしまい、暖かくなっても用心深く厚着している。眠るときも。おかげで寝苦しくなる。臨機応変な加減はむずかしい。記憶がそれを阻害する。過去と現在はちがう。ことばのうえでは、わかっているつもり。でもいかんともしがたく、割り切れない過去が現在に食い込んでくる。たいていは無意識に。たくさん、たくさん。

小鳥が雪のくぼみで遊ぶ。そのちいさな足あと。もう溶けてなくなった。冬の記憶。凍った路面の歩き方も思い出せない。桜は「まだほとんど咲いていない」とはいえ、あっという間に満開になるのだろう。いまに暖かさにも慣れる。「寒い思い」も暑気にくるまれ、ふかふかな野良猫の毛も生え変わっていく。

ちゃんと忘れる。そしてまた知らない感情に触れる。でもその未知は、単に忘れたから未知なのかもしれない。じつは繰り返し。それでもいいか。「何度だって忘れよう/そしてまた新しく出逢えれば素晴らしい」って歌があったっけ。すべてが初めてのようであり、再会のようでもある。書かれた記憶を手中で見つめていたはずが、次の瞬間には記憶に眼差されている。わたしたちは循環する。

春に漂う花の香りは、訪ねた家の空気のようによそよそしい。きょうは4月1日。ちいさな男の子がちいさな公園の一角で「Bling-Bang-Bang-Born」を歌っていた。Creepy Nutsの「Bling-Bang-Bang-Born」を歌うこどもに、この1週間で2回遭遇。

雨がちな天気のなか歩く。明るい曇り空。資源ゴミとして紐で括られた受験参考書の山が濡れている。山をよく見ると、受験参考書のほかに保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』の単行本、城一夫『常識として知っておきたい「美」の概念60』、木内鶴彦『宇宙を超える地球人の使命と可能性』などが混ざっていた。宇宙を超えたら、どこ行っちゃうんだろう。

きのうは夏日。きょうは肌寒い。冷たい空気の静けさと判明さが落ち着く。体の輪郭がはっきりする。あたたかいと、ぼやけてどうしようもない。ランチを食べた喫茶店は暖房が効いていた。食後にちょっと眠くなる。うつらうつら。

 

 “うつろなものは、うつろゆえに、その内部にさらに小さな小さなうつろを、そこここにたくさん持っている。そのような小さなうつろの、空間的な一例が珈琲店とか喫茶店とかよばれる場所だ。”

 

天沢退二郎『詩はどこに住んでいるか』(思潮社、p.129)。図書館で借りたこの本には、オリジン弁当のレシートが挟まっていた。2023年4月7日(金)12時55分、タルタルのり弁当を買ったらしい。レジ担当者、太田。もうすこしでちょうど1年前になる。1年に1回、借りる人がいたりいなかったりする本なのだろう。

久しぶりに日記らしい日記を書いた。23時過ぎ、熨斗袋をコンビニで買う。レジの若い男性は、ふくらんだお餅のような手をしていた。ふかふかのこぶし。釣り銭をうけとる。

 

 

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