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日記1020


6月4日(火)

夕飯どき、空になったペットボトル片手に地元をほっつき歩いていると、北野武と目があった。ゴミ箱を探していたら、たけしを見つけてしまった。ごっつい高級車から降りて、通行人を一瞥する。そこに出くわした通行人がわたしだった。関係者以外、ほとんど誰も気づいていなかったように思う。なんの変装もしていない、そのまんまのあの人がいた。幾人かの男性に囲まれ、手際よく建物の中へ入っていく。歩道に姿をあらわした時間は、おそらく10秒にも満たなかった。

こんなこともあるんだなと思う。芸能人なんていそうもない場所だったので余計に面食らった。言ってしまえば汚い路地裏。ただ、いい感じの小料理屋がいくつか並んでいる。その路地を抜けた先に自販機とゴミ箱がある。ペットボトルの中身を飲み干していなかったら、あの数秒間に出くわすことはなかったであろう。いや、6月4日のすべての行動がすこしでも違ったら、あの場にわたしはいなかった。さらに大きく言えば、この街に住んでいなければ、いっそ生まれていなければ……と究極的には宇宙のはじまりまでさかのぼれるような気もする。

すべての出来事がこのような連関のうちにあるのかもしれない。「すべての偶然があなたへとつづく」みたいな。そんな歌あったな。つまりカップラーメンを床にぶちまけて泣いたあの日も、切れ痔に悩んでいたあの日も、カバンを盗まれて野宿したあの日も、営業先で犬に追いかけられたあの日も、いままで経験したありとあらゆる日々が2024年6月4日(火)の夕方、北野武との遭遇のためにつづいていたのか。そういうことか。それはしかし、どういうことだ。だからなんだというのだ。なんかうれしかった。それくらいのことだ。

わずかでも「意味がある」と思える瞬間がおとずれるとき、こうして人生のストーリーが再編されるんだろう、などとぼんやり考える。拾い上げたその意味を中心に、過去の出来事のつながりが編み直される。「報われた」とか「罰があたった」とか。良くも悪くも。

ここに運命の導きを見出して「もう芸人になるしかない!」と思い込んでもいいのかもしれない。もしもわたしが前々から芸人になりたくて、でもなかなか踏み出せないという悩みを抱えていたならば、きっかけになりそうなもの。しかしそんな悩みは抱えていない。そういう因果のうちに自分はいなかった。

「自分なりの因果関係をつかまえる」みたいなことを意識するようになったのは、いつからだろう。あまり人生に意味があると思えないまま生きていると、「関係」というものに無頓着になる。大人になって、ようやく物語的な関連付けの作法に気がついたというか。幾度目かの物心がついたときがある。いまだについていない部分もある。多くの人が無意識裡にこなしている振る舞いが、わたしはいったん考えないとできない。

「意味がある」や「関係がある」と感じるためには何が必要か。いつも思うのは、人工知能の「記号接地問題(Symbol grounding problem)」は自分の問題だ、ということ。「わかる」とはどういうことか、とか。「心とは?」みたいなことばかり考えてしまうのは、それがわからないから。心ください。いやむしろ、心がありすぎるせいでどこまでも知りたいのか……。その可能性も否めない。心過剰。

あまりに人間的なところ、あまりに機械的なところ。両面あるのかもしれない。人間性と機械性は対立的でもないだろう。機械はヒトの一面を肩代わりしているのだから。

 

 

ちょっと飛んだことを書く。

自分のなかでは、記号接地問題って、感動の話でもある。意味があると思えること。関係があると思えること。それらは感動にかかわる。わかる、と思えるときも、感動的。感動ってなんだろう。だいたい死んだ目で生きているので感動がわからない。

感動の構造については前に書いた。それは現実性と虚構性の均衡点に生じる、みたいな話。

https://tadanoniku.blogspot.com/2022/02/882.html


角度を変えて、似たような内容をべつのことばで書きたいと思っている。スケールをちいさくし、卑近な例から。次の記事はそれ!と予告しておこう(書こうと思いながら、ずっと書けていないため)。やっぱ書かないかも!と逃げも打っておく(「やらなきゃ」と思うとだるいため)。

日記882を読み直して気付いたけれど、「いちど免責することで引責できる」みたいな責任をめぐる議論も、つまりは感動なのだと思う。自分が犯したことの意味がわかる。免責とは、その人をいちど、その人ではなくすることだ。べつの可能性を伝える。そして引責とは、その人がその人であるということ。自分から離れて、また戻ってくる。「虚」を経過して「実」と再会する迂回路をつくる。それにより物語が再編される。

で、そうそう、有名人とリアルに出会って興奮するもの「現実性と虚構性の均衡点」に当たる。虚実の邂逅。再会、そこに感動がある。感動とは因果のしるべであり、それは過去の再編をもたらす。

なんかそんなことを、北野氏とすれちがって思ったんです。



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