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日記1022

 

ギバーおぢ。

わたしのなかでは、お金を使い過ぎた際などに使うことば。「ちょっと今日はギバーおぢしちゃったなあ……」みたいに。散財しまくりたいときにも使う。「よーし、今日はギバーおぢしちゃうぞ~」みたいに。いずれにせよ、お金を使ったあとの気持ちはすこしかなしい。「ギバーおぢ」ということばは、そんなかなしみの受け皿になる。「おぢ」の滑稽味がかなしみを引き立てる。笑いながら泣けることば。ギバーおぢ。

さいきん心身がつらいので体を鍛えている。元気だか元気ないんだかわからん。なんでも混ぜてしまう。カレーの要領で。元気もつらいも混ぜてみるとおいしいと思う。カレーのようなメンタルでありたい。なに混ぜてもカレーだ。元気だろうがつらかろうが知ったことか。混ぜりゃカレーだ。なにを言っているのだろう。

近所の公園にうんていがあった。そこで夜な夜なトレーニングするおっさんがいた。わたしもときどきぶら下がっていた(おっさんがいないとき)。おとといの夜だったか思い立って、久しぶりにその公園へ行ってみると、うんていは撤去されていた。もうあのおっさんを見ることもないのか。仕方がないので意味なくジャングルジムにのぼった。けっこう頭つかう。パズルを解くように手足をかけていく。たのしい。三十路過ぎてもジャングルジムがたのしい。

こんなんで十分だ。もうなにもいらないと思った。深夜のジャングルジムのてっぺんでひとり、すべてを手にしたかのように。遠巻きにかすかな虫の声がきこえる。蒸し暑い空気を深く吸う。雲の合間に星がちらつく。ここでエンドロールが流れろ、と願う。もう終わってくれていいのに、とは何年も前から感じている。たのむから終わってくれ。わざわざ願わなくとも、いずれ不意に終わるのだとは思う。それでも。

ことばは「それでも」の産物ではないか。「にもかかわらず」とか。なにも言わないに越したことはないけれど、それでも。わたしはいつも、その地平からしゃべっている気がする。誰に宛てるでもなく。もて余したところだけ。すこしだけ、祈りをふくんで。たいていは、黙ってほほえんでいる。

終わる、というその一点において、すべての物語はハッピーエンドだと誰かが言っていた。どんな終わり方であれ、終わること自体が幸福なのだと。素敵なアイデアだと思う。笑いながら泣きたいと思う。それがいちばんだと思う。


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