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日記1025

忘れかけていた。最低でも月に一度は書こう。ときどきメールをくれる友人が思い出させてくれる。「なんでもいいから書いてくれ」というメタメッセージがそこには含まれている気がして、それがなくてはなにもかも忘れてしまいそうだった。

夏もとっくに峠を越えて、ここ数日はだいぶ涼しい。9月も終盤に入り、ようやく秋らしい日和。

以前はイベントへ赴くたび、なにごとかをここに記していた気がする。このところあれこれ見聞きしても、人に会っても、ほとんどなにも考えず、ぼーっと過ごすようになってしまった。不義理を働いているかも、という思いと、それはそれで悪くはないか、という思い、両方ある。ひたすらに、ぼんやり出来事を眺めている。イカみたいに。


“イカは信じられないほどに複雑な眼球を持っていて、そこから膨大なビット数の情報を取り入れている。ところがその目に比して、脳の構造のほうはあまりにも原始的で単純にできているので、とてもそれだけの情報量を処理できる能力はない。イカの群れは悠然と大洋を泳ぎながら、すばらしく高性能なカメラで地球の光景の観察を続けているが、それを呆然と見続けるだけで、情報処理を行わない。”

中沢 新一, 波多野 一郎『イカの哲学』(集英社新書)


tumblr でぐるぐる回覧されつづけている引用。この部分だけ何度も読んだが、元の本には当たっていない。これがほんとうかどうかもわからない。ほんとうのところは、イカにしかわからない。でもこの通りだとするなら、ことしの夏はイカのような状態で日々を過ごしていた。ただ呆然と漂う。

カメラを持ってあちこち行くだけ。
だいたいひとり。

2023年末あたりからか…… twitter で写真を投稿している人とぽつぽつ繋がるようになった。それまでは孤立しており「無言で写真だけを上げつづけているアカウントなんて、あまりないだろう」と思いこんでいた。すこし探しづらいだけで、蓋をあけてみればたくさんあった。蓋があいていないだけだった。ことばまみれのタイムラインが、たちまち画像まみれに。2024年5月あたりから、わたしのアカウントをフォローしてくださる方も謎に増えた。

とはいえ実際的なつながりはほとんどなく、孤立していることに変わりはない。そんななか、フォロワー増加のきっかけをつくってくれた twitter アカウントのひとつだと思う、quo さんと先日リアルでお会いした。


quoさん


いちばん始めのコンタクトは、わたしが「お題箱」に送ったメッセージだった。他愛のない話。長らく quo さんのアカウントが鳴りをひそめていた時期に、「いまあなたのことを思い出したんだ」と、要約すればそれだけの話を書いて送った。用もなく。

「なぜ twitter の DM でなく、お題箱に?」と対面したとき尋ねられた。話がべつの方向に流れて、これに関する返答が曖昧だった気がするので、ここで答えておきたい。返信のプレッシャーを低減したかったからです。SNS上から離脱しているということは、お忙しかったり体調や気分に変化があったりするのかしら、との配慮が念頭にあり。かといって「返信は不要です」とは明記しなかった。それはそれで可能性を閉ざすから。

つまり、お題箱はDMにくらべ、一方的でもよさげな形式なので、そっちを選んだ次第。つながりをひらきながら、半ば閉ざすようなバランスで話しかけたかった。なんでもない感じで、聞き流してもかまわない、鼻歌のように。

それからずいぶん時間が経過して、この9月にご返信いただいた。やりとりをするなかで「明日このへんにいますよ」とお伝えすると、適当に落ち会うことになった。

三脚を担ぎながら登場した quo さんは、思っていたより元気がよく、活き活きしていた。わたしの行き先に合わせるかたちで、2時間くらい目黒の周辺をぶらぶら。「行き先」といっても目的地はない。ただ手前勝手に歩き、撮りたいものを撮り、時間がきたら帰る。まったく無為な散歩である。呆然と大洋を漂うイカと変わらない。

人によっては拷問のごとくつまらない(意味がわからない)時間の過ごし方かもしれないが、quo さんはたのしそうについてきてくれた。ついでに公園の遊具であそんだりしつつ(わたしの希望)。初対面のおっさんふたりでアスレチック。滅多にないシチュエーションの、熱いアスレチックだった。

会話を交わしながら歩く。印象に残っているのは「撮りたいもの、かぶっちゃいますね」とわたしが話すと、「同じもの撮って勝負しよう!」とおっしゃっていたこと。少年の姿が垣間見えた気がする。すぐに「勝負っていうか……」と、はにかみながら言いなおすところもふくめて、よかった。

一瞬であれ、こどものような心象で関係してくれたのだと思う。そこまでリラックスしてもらえたことが自分としては、なによりうれしい。「こどもっぽさ」を発揮しないと、路上の写真なんか撮っていられないのかもしれない、とも思う。なんでも珍しがるような。

おなじ場所を撮っても、ちがいは鮮明にあらわれる。気にすることはなかった。わたしはなにかと隠そうとする。暗くしがち。ものの見方は同時に隠し方でもある。見ることに暴力性がともなうとするなら、隠すことは手当てに近い。ちゃんと隠そうとするのは、ケアの発想だと思う。

身も蓋もなく事象を抉出する怜悧さにもあこがれるけれど、そんなタイプではない。そういえば会話のなかで、冗談めかして「わたしはやさしい人です」と連呼していた。冗談とはいえ自分で言うもんじゃないかなーと反省する。

やさしさは、「する」より「しない」態度にあらわれやすい。どちらかといえば、なにをしないか、に含まれる要素だと思う。見せるより、隠すほうに。ことばの内より、沈黙の内にこめられている。「やさしくする」なんて思った時点で征服的だろう。

「やさしい人」という自意識はたぶん、「なにもしない人」と言い換えることもできる。ちゃんといなくなりたい、というか。お題箱にメッセージを書いたときも、ちょびっとだけ現れて、さらっといなくなるようなイメージだったかもしれない。すぐに忘れる夢みたいに。

ようするに、わたしはぼんやりひらひら浮遊するイカのようなデクノボーでありたいのだろう。そうなりきれないところももちろんあるが(にんげんだもの)、できるだけそのように透明でありたいと願っている。

撮影とおしゃべりをしながら約2時間の散歩はあっという間だった。ひとりで歩くときとは時間の流れ方がぜんぜんちがう。ともに呆然とできて、うれしかった。

 

 

 

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