“イカは信じられないほどに複雑な眼球を持っていて、そこから膨大なビット数の情報を取り入れている。ところがその目に比して、脳の構造のほうはあまりにも原始的で単純にできているので、とてもそれだけの情報量を処理できる能力はない。イカの群れは悠然と大洋を泳ぎながら、すばらしく高性能なカメラで地球の光景の観察を続けているが、それを呆然と見続けるだけで、情報処理を行わない。”
いちばん始めのコンタクトは、わたしが「お題箱」に送ったメッセージだった。他愛のない話。長らく quo さんのアカウントが鳴りをひそめていた時期に、「いまあなたのことを思い出したんだ」と、要約すればそれだけの話を書いて送った。用もなく。
「なぜ twitter の DM でなく、お題箱に?」と対面したとき尋ねられた。話がべつの方向に流れて、これに関する返答が曖昧だった気がするので、ここで答えておきたい。返信のプレッシャーを低減したかったからです。SNS上から離脱しているということは、お忙しかったり体調や気分に変化があったりするのかしら、との配慮が念頭にあり。かといって「返信は不要です」とは明記しなかった。それはそれで可能性を閉ざすから。
つまり、お題箱はDMにくらべ、一方的でもよさげな形式なので、そっちを選んだ次第。つながりをひらきながら、半ば閉ざすようなバランスで話しかけたかった。なんでもない感じで、聞き流してもかまわない、鼻歌のように。
それからずいぶん時間が経過して、この9月にご返信いただいた。やりとりをするなかで「明日このへんにいますよ」とお伝えすると、適当に落ち会うことになった。
三脚を担ぎながら登場した quo さんは、思っていたより元気がよく、活き活きしていた。わたしの行き先に合わせるかたちで、2時間くらい目黒の周辺をぶらぶら。「行き先」といっても目的地はない。ただ手前勝手に歩き、撮りたいものを撮り、時間がきたら帰る。まったく無為な散歩である。呆然と大洋を漂うイカと変わらない。
人によっては拷問のごとくつまらない(意味がわからない)時間の過ごし方かもしれないが、quo さんはたのしそうについてきてくれた。ついでに公園の遊具であそんだりしつつ(わたしの希望)。初対面のおっさんふたりでアスレチック。滅多にないシチュエーションの、熱いアスレチックだった。
会話を交わしながら歩く。印象に残っているのは「撮りたいもの、かぶっちゃいますね」とわたしが話すと、「同じもの撮って勝負しよう!」とおっしゃっていたこと。少年の姿が垣間見えた気がする。すぐに「勝負っていうか……」と、はにかみながら言いなおすところもふくめて、よかった。
一瞬であれ、こどものような心象で関係してくれたのだと思う。そこまでリラックスしてもらえたことが自分としては、なによりうれしい。「こどもっぽさ」を発揮しないと、路上の写真なんか撮っていられないのかもしれない、とも思う。なんでも珍しがるような。
おなじ場所を撮っても、ちがいは鮮明にあらわれる。気にすることはなかった。わたしはなにかと隠そうとする。暗くしがち。ものの見方は同時に隠し方でもある。見ることに暴力性がともなうとするなら、隠すことは手当てに近い。ちゃんと隠そうとするのは、ケアの発想だと思う。
身も蓋もなく事象を抉出する怜悧さにもあこがれるけれど、そんなタイプではない。そういえば会話のなかで、冗談めかして「わたしはやさしい人です」と連呼していた。冗談とはいえ自分で言うもんじゃないかなーと反省する。
やさしさは、「する」より「しない」態度にあらわれやすい。どちらかといえば、なにをしないか、に含まれる要素だと思う。見せるより、隠すほうに。ことばの内より、沈黙の内にこめられている。「やさしくする」なんて思った時点で征服的だろう。
「やさしい人」という自意識はたぶん、「なにもしない人」と言い換えることもできる。ちゃんといなくなりたい、というか。お題箱にメッセージを書いたときも、ちょびっとだけ現れて、さらっといなくなるようなイメージだったかもしれない。すぐに忘れる夢みたいに。
ようするに、わたしはぼんやりひらひら浮遊するイカのようなデクノボーでありたいのだろう。そうなりきれないところももちろんあるが(にんげんだもの)、できるだけそのように透明でありたいと願っている。
撮影とおしゃべりをしながら約2時間の散歩はあっという間だった。ひとりで歩くときとは時間の流れ方がぜんぜんちがう。ともに呆然とできて、うれしかった。
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