なんだかよくわからないものにずーっと巻き込まれているような感覚を、飴屋法水『たんぱく質』(palmbooks)から受け取る。生き物はみんなたぶん、なんだかよくわからないものにずーっと巻き込まれている。ごくわずかな、わかりそうな部分を後生大事に抱えてなんとかやっている。そのちいさな欠片だけで、なにもかもわかったような気になってしまう人もいる。ときに、わたしもそう。
生き物としての人間の話ができる人はあまりいない。生き物としての身も蓋もないさだめ、身も蓋もない卑小さをいつも小脇に抱えているような人。名前のない、未分化なただの生き物として茫漠とたたずむ人。飴屋氏はそんな人に該当するかもしれない。
“私は私に、閉じ込められている
私という不自由に、閉じ込められて生きている、しかし生き物としての体の中には、私が生きたかもしれない、別の誰かが眠っている、私が私になる前の、まだ何者でもなかった生き物のことを、私の体は覚えている、それは私の中で眠り続けている、生き物は皆、それを抱えながら生きている、私が話したいのはこのことだ、誰しもが、別のなにかでも、ありえたのだ
ありえた自由を抱えたままで、私は、私の不自由を生きていく”
『たんぱく質』(p.95)
9月の最終日曜日、編集者の郡淳一郎さんとダダイストの山本桜子さんのトークイベントへ出向いた(@浅草橋天才算数塾)。『たんぱく質』を読みながら、イベント終了後の交流会で山本さんと交わした会話の質感を思い出していた。似ている。何者でもない生き物としての人間について話していたと思う。犬猫やゴキブリや芋虫や爬虫類の話もした。原始人の話もした。人間をふくめた生き物たちがなんの序列もなく飛び交う会話。
わたしが水を向けたところもあるけれど、それは「この人ならできる」と無意識に感じたからだろう。ふいに「人間って殴ったら死ぬじゃないですか」などと口走っていた記憶がある。自分に驚いた。およそ初対面の人とするような水準の話ではない。ふつうに考えたら不躾にもほどがある。しかし、失礼には当たらない感触があった。むしろこの水準が礼に適うのだと。
単純に殴ったら死ぬ存在としての人間の話。「田原俊彦を鉄アレイで殴りつづけると死んでしまう」みたいな話。「私」なんかどうでもいい、だれであろうがおなじ、乱暴な話。安いヒューマニズムから遠く離れた原野の精神性とお話ができた貴重な夜だった。
“今、宗教が機能しているとは思えない、今、人間の社会で機能してるのは、人を救うとされているのは、人権という言葉、つまりヒューマニズムだけではないか?
ヒューマニズムはその名の通り、人間の人間による人間のための、人間が編み出した考えであり、人間のことしか勘定にいれていない、宗教はその内側にはないだろう、むしろヒューマニズムの外にこそ、宗教はあると私には思える
人である私が人の世を、なんとかつつがなく生きていく、人間同士が人間社会を、せいぜいフェアに生き延びていく、そのためだけの術、それは私を少しも納得させない、私はそこに宗教を感じない、それは私にとって宗教にはなりえない
私をひとつも救わない”
『たんぱく質』(p.101)
人によっては極端に思えるかもしれない。飴屋氏のこの記述は、郡さんと山本さんのあいだで交わされた対話とも深く関わっている気がする。ことばは違えど、なんか似たようなパースペクティブのお話をされていたような。近現代的な「人間」の形式を大きくはみ出す、古層の時間を視野に入れた「生き物」としての、苛烈なものの見方。
進歩的ではなく、退歩的な見方ともいえる。対話のなかでは「アンファン・テリブル」ということばが挙がっていた。こどもっぽさ。どころか、もっと原初的で未分化な卵っぽさにまで退歩する感受性。
「お前それ、サバンナでも同じこと言えんの?」という煽り文句があるが、サバンナでも同じことを言えるタイプの知性かもしれない。生き物としての人間の話。以下は飴屋氏の退歩性を象徴する一節だと思う。
“ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えた、知っている、地球はくるくると自転しながら、太陽を中心に公転してるのだそうだ、知っている、私が発見したわけではない、そう聞いたのだ、科学という名の噂話で”
『たんぱく質』(p.130)
「科学という名の噂話」。ある場所でこの部分を共有したら、不快感を示す方がいた。進歩的な方なのだろう。もちろん、よく言われるように巨人の肩の上に乗って考えることもたいせつ。他方で、巨人の肩の上に乗らない、地を這うような思考もわたしは興味深いと思う。それもまた人間である。
ここで読み取れるのは、禁欲的なまでに一次情報にこだわる姿勢だろう。「私が発見したわけではない」と。それに、地球のようすを外から肉眼で知覚することはできない。「私の目には、どこまでいっても地面は平らだ」と飴屋氏は書く。かといって(おそらく)地球平面説を積極的に支持しているわけでもない。頼むものはなにもなく、あっけらかんと「そう見える」というだけである。
取り残されたように頼りなくひとりでいる。巨人の肩の上にぜんぜん乗らない、一介の矮人。自分の性格とも近いところがある。近所の書店の推薦文に「飴屋さんにしか書けない」とあったが、長い時間ひとりで過ごすと、近いこと考える奴になれるよたぶん。と思ってしまう。あるいは、何年も迷子になると近づけるかもしれない。
とうぜん飴屋さんにしか書けない面もたくさんある。8割方そう。でも僭越ながら2割くらいどこか、性格的な近さを感じてしまう。社会から突き放された/社会を突き放したような、遠い目線の孤独な理路。そこを自分もたどった覚えがあるような。迷子のなかで発揮される盲目の理性というか。
トークイベント終了後の交流会では、まったく世間話についていけなかった。ぽつんと孤立したわたしに、となりに座っていた方が「よかったら加わってください」とやさしく声をかけてくれたが、まるでとっかかりがつかめず、缶ビールを飲みながらひたすら芋煮を食べていた。申し訳ない。
むかしから噂の次元の話が非常に苦手だと思う。それを「社会性がない」と呼ぶのだろう。一人称と二人称の範囲までなら噛めるが、三人称的な飛躍には口を閉ざしてしまう。主体の不分明なやりとりが苦手なのかもしれない。
世間的なものをすっ飛ばして、殴ったら死ぬ人間一般の話ならけっこうできる。わたしは世間に位置を持たない。人間でしかない。自分の意識のなかでは、名前も職業もないにひとしい。所属感がない。とりあえず呼吸をしている、人間という生き物でしかないのだと思う。どんな名乗りも肩書きも嘘くさく感じてしまう。どうも「人間」というカテゴリーさえ首肯していないところがある。人間? なにそれ。いつからか、そんな奴になってしまった。「所在なさ」が極まっている。むろん、なりたくてなったわけではない。よくわからない。こうした自分の性向はなんなのか。きっと死ぬまで、よくわからないものに巻き込まれているのだろう。
トークイベントの帰り道、路上の暗がりに『イカプラス』という雑誌が落ちていた。なんだろう? とうずくまって表紙に見とれていると、自転車で通りがかったおまわりさんに話しかけられた。なにしてるの? イカプラスを見ていました。どこ行くの? 帰宅途中です。とくに荷物のチェックなどは受けなかったが、なぜか「元気だして」と励まされた。犯罪者的な雰囲気ではなく、死にそうな奴の雰囲気をまとっていたのかもしれない。イカプラスが気になっただけなのに。よくわからないものに巻き込まれていた。イカプラスってなに。東海・北陸エリアに密着したイカ釣りの専門誌らしい。2013年冬号をもって休刊。2024年晩夏、なぜか東京の路上で一部発見。
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