自己は唯一の人間であると同時に、たくさんいる人間のなかのひとりでもある。言い換えれば、連続的であると同時に離散的でもある。アナログであり、デジタルでもある。こう変換すると、 日記1028 でアキレスと亀のパラドックスにまでつなげたのも、あながちトンチンカンな話ではなくなるだろう。連続系と離散系とでは記述の方法が異なるが、わたしたちはその両方を兼ね備えながら存在している。 と、年明けにメモをつけていた。自分で書いたことが自分でもわからず、あとあと考えてしまう。とりあえず散らかしておいて、あとから片付けるように自分で自分に宿題を課しているのかもしれない。そして片付け中にまた散らかる無間地獄……。 わたしはわたしにとって、ひとつづきのわたしであるっぽい感じのヤツだが、他者にとっては途切れ途切れに現れる、時と場合によっていたりいなかったりするヤツである。つまり、わたしは連続的であり離散的でもある。すべての他者は離散的である。他者から見た自己も離散的である。途切れ途切れである、その離散性の隙間を縫いつける知性が “想像力” と呼ばれるのだと思う。多くの人が、ほとんどそれと知らずに発揮している、“見えなさ” を補い、連続性を装うふしぎな力。 霊長類学者の山極寿一は、類人猿と人間を画する違いとして不在への許容度を挙げている。類人猿の社会では仲間の不在は許容されない/されづらい、らしい。連続性に重きを置く、といってもいい。不在はほとんど死を意味するのだと。対して、人間社会は不在への許容度が比べものにならないほど高い。 たぶん、人間でも幼児は成人より連続的な在り方をしている。体と体の距離が近いし、親近者が離れると泣いてしまう。きっと幼児にとって、そこにいないものは端的にいない。それはとてもこわい。想像すると、わたし(30代男性)でも泣いちゃう。「いないものはいない」という、あまりに澄んだ認識。切迫した、ある意味では “正しい” 見方でもある。「目の前にいなくても、どこかにいる」といった、連続性と離散性のあいだをつなぐ想像的な余白は安心につながるが、そこには “いい加減さ” がある。人はおとなになるにつれていい加減な距離のつけ方を覚え始める。 「いる/いない」に関連して、電車のなかでよく思うことがある。へんな言い回しになるが、「電車のなかで電車のなかにいる人は少ない」ということ。 東京...