思いつきメモ。
幻覚剤が精神疾患に効くんじゃないか? という話があって、めっちゃ大雑把にいえば「幻覚剤で文脈を揺さぶる」的な説明(仮説)がなされていた。デヴィッド・ナット『幻覚剤と精神医学の最前線』(草思社)、あとマイケル・ポーランのいくつかの本を参照したうえでの理解。
なんか斎藤環『イルカと否定神学』(医学書院)に書かれていたオープンダイアローグの効果(これも仮説ではあるが)と似ているように思った。
方法としては、かたや幻覚剤(超ケミカル!)、かたや対話(超ヘルシー!)とまったく異なる。しかし機序の説明が似ている。素人の臆見に過ぎないが、この相似は非常に興味深く思う。
もしかしたら、すでに誰か指摘しているのかもしれない。あるいは、こんな(突拍子もない)つながりを見いだす人間は自分くらいなのかもしれない。野蛮な奴が野蛮な発想をしている、と思ってもらってかまわない。同じ分野とはいえ、まるで毛色のちがう本を並行的に手にする好奇心がすでに、野蛮なもんだろう。
以下『幻覚剤と精神医学の最前線』からすこし引用する。
“スモールワールド性を持つ脳のローカル接続は、すべての事前知識に依存している。私たちが乳幼児期から培ってきた、ありとあらゆる状況に対する事前知識である。これは、日常生活を送るうえで、極めて優れた仕組みとなっている。エネルギー効率も非常に高い。私たちの脳は、既知のいかなるコンピュータに比べても、10倍の効率性を誇る。
その一方で、脳のこの効率性は、柔軟性の欠如や創造性の喪失といった、いくらかの代償をともなう。そして、この効率的に働くネットワークのうち自尊心や人生に対する姿勢を決定するものが不適応だとしたら、精神疾患を引き起こす可能性がある。
サイロシビンの影響下では、そして後の研究で示されたようにLSD影響下でも、脳内のつながりが図3bのように変化する。より多くの脳領域の間に、新たなつながりが大量に生まれていることがわかるだろう。「スモールワールド」が、「ラージワールド」ネットワークになるのだ。いつものネットワーク内でのコミュニケーションが断ち切られ、ネットワーク間の相互作用が増幅される。手かせが外れた脳はすっかり自由になり、幼児期以来なったことがない状態に戻るのだ。
このことは、幻覚剤を摂取した人々が描写する、意識の広がりや宇宙とのつながりといった感覚の説明にもなる。”(p.105)
↓(図3、p.106)
“接続性が増えることは、幻覚剤を摂取した人々が、自分自身に対する重要な気づきや知的な洞察が得られたと報告する理由の説明にもなり得る。入眠直後や睡眠中に新しいアイデアが浮かぶプロセスにも似ているが、DMNの支配力が減退することで、トップダウン型の指令からの制約を受けることなく、脳が自由に働けるようになるためだ。
何十年もの間、切り離されていた脳領域間に新たなつながりが形成されることによって、人々は古くからの思いこみや悩みを見直したり、苦痛の根源である記憶を追体験したり、隠された、あるいは抑圧されていた個人的な問題にアクセスできるようになるのではないだろうか。DMNによるトップダウン型のコントロールが崩れることで心が開放され、脳を横断する新しいつながりが、古い記憶や感情を新しい洞察、理解、解釈に結びつけることを可能にするのだ。”(p.107)
DMNとは、デフォルトモードネットワークのこと。
で、以下は思いつき。
わからないし、ハイパー短絡的なんだけど(大事なことなのでもう一度:わからないし、ハイパー短絡的だよ!)、似たような効果が「対話」においても発生するのではないか。とはいえ幻覚剤でトリップするより、ずっと長い時間が必要になるのだとは思う。でもオープンダイアローグ的な対話実践においても、神経可塑性が高まってすこしずつ膠着した脳内のネットワークが書きかわるんではないだろうか。
デヴィッド・ナットが説明する「スモールワールド性を持つ脳のローカル接続」は、斎藤環のことばに置き換えると「小さな真理」に近い。斎藤氏が援用しているグレゴリー・ベイトソンのことばでいえば「学習II」。
“脳において学習IIを介してもたらされた(と記述されうる)コンテクストは、「小さな真理」として機能します。性格、主観、トラウマ、症状といった「真理」として、です。それはあくまでも、「その個人にとっての真理」でしかありませんが、個人の行動原理に与える影響の大きさという点からいえば、「普遍的真理」の比ではありません。
この意味で「治療」や「ケア」という行為は、こうした「小さな真理」になにがしかの変化を求める行為ということができます。そのためには、前節で述べたように、コンテクストに揺さぶりを掛ける必要があります。”
『イルカと否定神学』(pp.214-215)
性格、主観、トラウマ、症状といった「その個人にとっての真理」はデヴィッド・ナットの書く「私たちが乳幼児期から培ってきた、ありとあらゆる状況に対する事前知識」と近似している。そして「治療」とは、この「小さな真理/スモールワールド」に揺さぶりをかけるところから為されるのだと両者ともに語る。
以上のように、方法はぜんっぜん異なるものの、その過程の説明はかなり似通ったところがある。共通するのは、ある凝り固まったコンテクストに、べつの多様なコンテクストを差し込んで解きほぐしていくようなイメージだろう。「これしかない」というところに、「ほかにもあるかも」と示していく。かたや幻覚剤によって、かたや対話の技法によって。
精神科領域における「治療」やら「ケア」やらというものは、個々人の置かれた文脈を読み込んだうえで、その隘路をどうにかこうにか相対化して、耕していくようなものなのかもしれない。可能性を賦活化する。だからこそ、その方法はいくつもある。薬から認知行動療法から精神分析から瞑想から対話から、はたまた安全に狂ってみたり、マクロな面では社会変革から……マジで多岐にわたる。統一理論や統一メソッドはきっとないほうがいい。ヒトの生き方はほんとうに、びっくりするほど多様で未知の「わからなさ」を孕んだものだから。
広くとらえれば、「社会変革」と書いたように個人の問題のみに還元できる話ではなく、生き方や考え方のルート(=物語)が社会全体で凝り固まり痩せ細っていくと、「これしかない」隘路にはまりやすくなるよねと、そんなふうに見ることもできる。
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わたし自身、数年前にパニック障害の「治療」を受けていたなかで、精神科領域における「治療」ってなんなんだろう? と考え始めたのだが(あやふや過ぎるやり方に耐えかねて「自分で考えるしかねー」と)、なんとなく答えらしきものに、いったん辿り着いたみたいだ。
その答えというのも「文脈を耕す」だの「可能性の賦活化」だのあやふやなものなんだけれど、まあ人間そういうものかと、何周もまわってひとまず自分なりに腑に落ちたのでした。あやふやさ、それ自体が治療的なのだろう。
わたしの病因があるとすれば、それは「あやふや過ぎるやり方に耐えかねて」の部分だ。良くも悪くも「わかりたい」という不埒な欲望が人一倍ある。それはそれでときどき役立つし大事かもしれんが、「わからなさ」も同じほどに大事なのだ。
精神科治療の終着点は、不承不承でも「わからなさ」を了承するところにあるのだと思う。そのためには、わかろうとする足掻きも無駄ではない。たぶん、その過程がなければ「わからなさ」はわからないから。
「わかる」という已然の地平ばかりが知性だと巷間では思われがちだが、「わからない」という未然の地平も重要な知性の発現である。わかるようにする知性も、わからないようにする知性も、人間には同じだけ必要なのだと思う。
わかるだけでも、わからないだけでも話は成り立たない。わかるようなわかんないような地平で初めて、ことばがドライブされる。人との会話って、だいたいそんな感じじゃないかな。
已然と未然。「もう」と「まだ」。終わりと始まり。それは日々のリズムでもある。もうわかった時間と、まだわからない時間を綯い交ぜにしながら、わたしたちは「いまここ」で眠りにつく。このバランスが崩れると眠れなくなってしまう。
余談ながら、睡眠時の夢というものがさいきん気になっている。脳科学者の池谷裕二によると「夢が外部入力によって歪められたものが現実」という考え方もありうるのだとか。「実は、夢を見ているほうが、脳にとって自然なのではないか」(『夢を叶えるために脳はある』p.209)と。寝ているほうが生物の基本的な状態であって、覚醒して動き回るって一部の動物たちが謎に進化させた特殊なもんなのではないか、みたいな話。とても刺激的で、確かにそうかもしれんと思う。
覚醒時でも半ば、わたしたちは夢を見ているように思えてならない。未来とか過去とか、ふつうに言うけど、夢みたいなもんやん(暴論)。時制なるもの自体が夢に近いように思う。というか言語が夢の細片みたいなものだ。ひび割れた夢の欠片をかき集めて、文章を編んでいる。それを読むこともまた、だれかの夢想を追いかけるようなもの。
夢の残響がことばになる。起きてからも、とても切実な夢を見ている。おかしいくらい。そういうものとして接すると、「現実」にまた違った味わい、彩りがもたらされて面白いかな。わからないけど、わからないから。
この記事は昨年12月に書きかけたもの。ようやく下書きを脱した。あと数日で2月が終わる。
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