6月3日に高円寺の Oriental Force という場所でライブがありました。わたしは出演者のひとりとして参加。このブログでは音楽活動についてほとんど書いていませんが、じつはときどき尻からヒップホップを捻り出す珍獣という裏設定があります。いま8月7日なので、もう2ヵ月も前のことです。遅まきながら、関わってくださったすべての方々に感謝いたします。
しょうじき、やれるか不安でした。でもなんとかやれることはやれたかな。反省点は多いです。言い訳はしません。ただ、しばらくネコニスズの「歌詞が飛んだよ」を見て癒されていました。精進します。
ほとんど隠者みたいな私生活との差が激しくて、ライブ後はしばらく放心状態でした。ヴィム・ヴェンダース監督の映画『PERFECT DAYS』の主人公(無口なトイレ清掃員のおじさん)が急にラッパーとして人前に立つところを想像してみてください。この比喩に誇張はなく、だいぶそのまんまだと思います。
矛盾するようですが、自分の制作のモチベーションはすべて、「人々から遠ざかりたい」という願望のもとにあります。無意識にもそうなってしまう。誰にも、なんにも関係ないことをやっていたい。「関わりのなさ」だけが美しいのかもしれない。そんなことを思います。というか、もともとわたしたちはなんの関係もない。
数日前、岸本佐知子のエッセイ集『わからない』(白水社)を読んでいて、帯にも採用されている幼い頃のエピソードが示唆的だと勝手に感じました。
“お人形遊びなんかやりたくない。でもそのことは、なぜだか絶対に言っちゃいけないような気がする。ばれちゃうから。ばれるって何が? わからない。地球人のふりをして生きてる宇宙人も、こんな気持ちかもしれない。”(p.8)
ここで「ばれちゃう」ものとは何か。「関係のなさ」ではないかと思います。それを言ったら、地球を追われる。すべてがおしまいになるような、根源的な関係のなさです。ふとしたところにひらけている虚無の穴、というか。フィクションの破れ目。わからない穴。
ふだんは、あんまりばれちゃうと生きていけないから、がんばって人々と関係があるかのようにふるまわないといけません。集団の成員として共有可能な物語のなかで、なんかわかったようなふりをしていないと。出来合いのフィクションがなければ人間関係は維持できないのです。そうやってばれないよう生活しているわけですが、じつは何ひとつわかっていることなどありません。すぐ傍には、ここはどこ? わたしは誰? どうしてこんなことをしているの? と、泣き出したい気持ちをこらえている幼い自分がいます。
写真を撮るときや、ラップをつくるときには、わからないことをわからないままにやっている感覚があります。そっちのモードがふつうになる。関係あるのがふつう、ではなく、ないのがふつう。わかるより、わからないほうがふつう。みんなでいることより、ひとりでいることのほうがふつう。いわば反転した世界。すなおに、迷子のままで、心を安んじていなくなれる。迷子の自分をサルベージするためにやっているような面があります。
人前に出ようがひとりである(自分しかやる人間がいない)ことには変わりないので、さほど矛盾はしないのかもしれません。自分が第一の語り手でないといけない。
ライブでは自分で書いた曲に加え、季村敏夫・高木彬 編『一九二〇年代モダニズム詩集 稲垣足穂と竹中郁その周辺』(思潮社)より、詩を4篇読みました。音に乗せて。
恥ずかしながら、こんな感じの。
ライブに来てくださった方から、好きな詩なのか問われましたが、「好き」を基準に選んだわけではありません。Chang diz というビートメイカー氏がつくった曲の長さと、詩の長さを突き合わせて、ちょうどよく収まりそうなものを選びました。ビートのかたちを基準に選んだ感じです。
とうぜんのように「好きではない」と答えたとき、大笑いしてもらえてハッとしました。たしかに、好きでもない詩をわざわざ曲にして大声で読むのはおかしなことかもしれない……。
でも個別の詩は措くとして『一九二〇年代モダニズム詩集』という本は怪しい魅力を放っていて好きです。知られざる特異な詩を纂輯した瞠目すべきお仕事だと思います。それに古い詩なので著作権的にもクリアかと思い、この本から詩を拝借したのでした。みずのわ出版から出ている『一九三〇年代モダニズム詩集』も好きです。
曲にして、はじめてわかった詩のよさもあります。何度も何度も声に出して読み込むから。ふつうに黙読するだけでは気がつかないリズムのありかたや、韻の踏み方をいくつも発見できる。自分なりに詩の潜在能力を引き出していくように、音の解釈をほどこしていく。楽しい作業でした。意味をうんぬんするだけが解釈ではなかった。
それにしても1920年代に発表された詩が、約100年を経てこんなふうに使われるとは作者は思ってもみないでしょう。よくわからない動機で、よくわからないバトンが受け継がれている。バトンはそこらじゅうに転がっているのかもしれません。自分の意志によらず、よくわからないバトンをたくさん拾っている気がします。そんで知らず知らず、自分も誰かにバトンを渡している可能性がある。
人は誰しも、運び屋なのだと思います。何を受けて、どこに届くのかはぜんぜん知らないけれど。なんか受け取って、なんか運んでる。
「一緒にライブしよう」と誘ってくださった、もらすとしずむというバンドを主宰する田畑“10”猛さんも、わたしがせっせと発信している怪電波を受信してくださったおひとりです。ありがたいことに。おかげで自分ひとりではできないことができました。
もらすとしずむのパフォーマンスがすばらしいからこそ、背中を預けるようにしてやれた面は大きいです。ソロベーシストとして出演された神宮司さんもかっこよかった。ちなみに、もらすのボーカルをつとめている(いた?)サムカワよんさんはもともとソロ活動をメインにされています。今後はソロに重きを置くそうです。
わたしは基本的にひきこもりがちな人間なので、次があるのかわかりませんが、ある場合はこのブログでもちゃんと告知したいと思います。何をやっても恥ずかしさは拭えないけれど、がんばる。とにかく恥ずかしい。このことは声を大にして言っておきたいです。それを押してなぜがんばるのかは、知らない。「そうなってしまった」としか言いようがない。自分の因果に従うのみ。そういうもの。“So it goes” です。空約束になりがちですが、ブログの更新頻度も上げたい。
「もともとわたしたちはなんの関係もない」などと言いながら、つながり(因果)もたいせつに思っています。いや、「関係ない」という前提があるからこそ、つながりを奇跡のように感じるのかもしれません。なんの関係もないはずのものが、なぜかつながっている(ような気がする)。仮初めであれ、そう感じられることは、自分にとってすごいことです。
さいきん、カムチャツカ半島で巨大地震が発生し、SNSの一部では谷川俊太郎の「朝のリレー」を思い出したという人が大量発生していました。ご存知の方も多いでしょうが、こんな詩です。
“
カムチャッカの若者が
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝返りをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝陽にウインクする
この地球で
いつもどこかで朝がはじまっている
ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る
眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ
”
「朝」という媒介項を通して、なんら関係のないものを有機的に関連づけるセンスが働いています。このように物事を貫通させる幻視力は、詩的感受性のひとつといえるでしょう。関係ないはずのものにつながり見出す。そこに詩が宿る。いわば奇跡の演出です。
すなおに「いい詩だな」と思う一方で、「交替で地球を守る」なんて言われても「んなわけねーだろ」と冷や水を浴びせたくなる意地悪な心も芽生えます。そんなこと言ったら、ばれちゃって地球を追われる。いい感じのフィクションは紐帯を維持するうえで非常にたいせつ、と感じながらも乗り切れない。つなぐ見方とバラす見方をいったりきたりしているのが自分の特徴なのかもしれません。善良さと底意地の悪さ、というか……。あるいは、奇跡と退屈。
こなかりゆ「奇跡と退屈」。ときどき聴きたくなる曲です。「毎日はいつまでだろう」というフレーズが印象的。つながりと切断を同時に言っている。つづいていく流れと、終わりゆく流れが入り混じる汽水域で浮かぶ疑問。アイスのサムネイルが涼しげでいい。ぜんぜん関係ない曲紹介にまで、あたかも関係するかのようにこぎつけたところで、終わっときます。
酷暑です。熱中症にお気をつけください。
よい8月を。
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