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日記1034

 8月17日(日)

午前中、スーパーで買い物。急にちいさな女の子がダブルピースしながら「カニ!カニ!」と迫ってきた。やや動揺しながらも、とっさにカートから片手を離し、こちらもピースで「カニカニ」と返す。「カニ!カニ!」「カニカニ」と、すれ違いざま2往復した。近くにいた親御さんから「すいません」と謝られ、ほほえんで会釈。そんなひとコマがあった。

ひさしぶりに人間との会話が成立した気がする。カニカニ言い合うだけのやりとり。これぐらいが自分の身の丈にはちょうどいい。カニカニ以上の話は高度すぎてなにを言っているのかわからない。このごろほんとうに、人々がなにを言っているのか、日増しにわからなくなりつつある。

しかし、あの子の「カニ!カニ!」は完璧に通じた。なんというか、魂がこもっていた。こちらも気圧されるように「カニカニ」で応じた。すると、うれしそうにまた「カニ!カニ!」と全身を使い、大声でこたえてくれた。こんどは喜んでこちらも「カニカニ」とやわらかく伝えた。心から通じ合えた気がする。

人との会話なんて鳴き声みたいなものでじゅうぶんではないかと、本気で思ってしまう。「ほえー」とか「にゃー」とかで、じつは日常会話の8割くらいは代替可能なのではないか。なにより、そんなに意味のあることを言わないほうが、平和である。いや、鳴き声ばかり発するおっさんはさすがに気持ち悪いか……。長嶋茂雄みたいな天才っぽい人なら、オノマトペ多めでも許されそうではある。あるいは不思議ちゃん的な雰囲気の人。

そういえば、ときどき不思議ちゃんみたいな扱いを受ける。じっさい、わたしの日常会話は6割くらい虚ろな表情で「ほえー」とか言ってるだけだ。それで事足りるのであればじゅうぶん。余計な話はしないに限る。

余計な話をあえてするなら、人間みんな不思議ちゃんである。直立二足歩行でヨタヨタ歩き始めるあたりから、だいぶ不思議である。「ことばを話す」なんてのは、不思議の最たるもの。鳴き声を駆使するほうが自然界では遥かにふつうなのだから。「カニカニ」の応酬で心を通わせるほうが生物としてはスタンダードに決まっている。こちらからすれば、めんどくさい会話に明け暮れる人々ほど奇異にうつる。

と、こんなふうに無駄な抗弁を始めると争いの火種になってしまう。「お前は人間ではないのか?」などと突っ込まれそう。「お前の混ぜっ返しのほうがよほど奇妙でめんどくさいぞ?」とか。その通り、わたしはめんどくさい人間である。もはや自分の思考回路に付き合うことさえ辟易している。だからもう、カニとしか言いたくない。わたしはカニになりたい。カニください。カニ本来の味が知りたい。いまだかつて味わったことがない、カニ本来の味が。

あの女の子は、確実にカニ本来の味を知っていた。カニ本来の味を知るにはまず、みずからカニになりきる必要がある。全身全霊でカニを表現していた、あの子のように。存在としてのカニを知ること。ハイデガーの「本来性」に倣って言えば、先駆的決意性に裏打ちされたカニ本来の、現存在としての姿をあの子は体現していたのだ。ただ食べるだけの、頽落した非本来性のカニではない。あの子はどんな食通よりも、どんな料理人よりも、カニに賭けていた。というより、カニとして現に存在していた。カニとして生き、カニとして死ぬ。人間をやめんばかりの態勢から湧き上がる生の充溢、そこにこそ「カニ本来の味」が滲み出る。そんな境地からあの子は決死の覚悟で叫んでいたのだ。「カニ!カニ!」と。みずからの実存を祝福するように。

むろん、カニが「カニカニ」と鳴くことはない。人間がカニになれるわけがないのも、むろんのこと。しかしそれでもなお、我々にはカニになることを夢見る能力がある。「夢見る能力」とはなにか。それは、ことばを扱う能力のことだ。ことばのひとつひとつは、夢の切片ほかならない。「カニ」という夢の切片を高らかに掲げることによって、あの子はカニとなり得た。ことばのうえでしかないカニではあるが、であるからこそ、純粋にほかのなにものでもないカニがそこにはいた。

ことばそのものがあった、とも言える。ことばそのものとは、夢そのもの。わたしにとっては、それこそがリアルなのだと思う。ほんの数秒間、すれ違いざまのやりとりが、これ以上なくリアルに迫ってきた。「カニ!カニ!」。その叫びは紛れもなく人間のことばであり、人間以前のことばでもあった。人間が見たカニの夢であり、カニが見た人間の夢でもあった。夢のなかでは、わたしもカニだった。もう思い出せない、しかし忘れることもできない、かつてのわたしの痕跡がそこにはあった。あの子の呼び声によって混濁した記憶の底から、わたしではないものたちの影がまざまざとよみがえる。わたし以前のわたし。そう、わたしは人間であり、カニでもあったのだ。

およそあらゆる呼び声は変身を要請する。わたしは自身の夢を生きながら、他人の夢の登場人物でもある。現実とは、そんな夢(ことば)を抱く自己と他者が、つまり無数の夢同士が絶えず混交しつづける浮動的な領域のことをいう。あなたの夢のなかで、わたしはカニだった。あなたが「カニ!」と叫ぶことで、わたしもカニの夢を見た。声を交わすことは、すなわち夢を交わすことである。わたしたちは夢の呼び声を反響させ合うことで、あらゆる変身の可能性にひらかれる。

不意に訪れた「カニ!カニ!」という叫びは、単なる自己完結した夢ではなく、わたしの夢へと貫通し、わたしたちの夢となった。そうした呼び声の波紋が連鎖することで、徐々に夢は現実と呼ばれるようになる。あの子はカニで、わたしもカニで、わたしたちは共鳴していた。それは決して絵空事ではない。リアルな出来事だった。

ただことばが響くとき、現実がつくられる。

忘れていた。
ことばはすべて、反響だった。




“叫びの可能性を認めない言語は人間の言語ではあり得ないだろう。おそらくそれは、間投詞やオノマトペ、そして人間ではないものを人間が模倣する時ほどに、言語が強度を持って存在する場所が他にないからだ。言語は、それ自身の音から離れ、言葉を持たない、あるいは持ち得ないものの音、すなわち動物の鳴き声、自然や機械の出す音を引き受ける時にこそもっとも言葉そのものになりうる。そしてその時、言語そのものを越えて、言語は自らの前にありその後に続く、沈黙、非言語に自らを開く。自らが発することのできないと思い込んでいた、異質な音を発することで、言語は本来の意味で「exclamation」、つまり「外への呼びかけ」(ex-clamare, Aus-ruf)として理解されうる。言語の外へ、または言語の手前に、人間のものではない言葉の持つ音の中に、かつてそこにいたという記憶を思い出すことも完全に忘却することもできないまま。”

ダニエル・ヘラー=ローゼン『エコラリアス』(みすず書房、p.19)


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