カウンセリングのような二者関係を軸にする心の療法と、オープンダイアローグのような多数の対話で行う心の療法があります。
人間というのは、個であり集団でもある。そのバランスをとりながら社会生活を営む存在です。とくに近代以降においては。それ以前は「個」という概念はそこまで強くなかったかもしれません。
現代は「個」が強調されがちな時代です。それでも人間はやはり、集団に基礎づけられた生き物です。個というのは、一種の幻影だとさえ感じます。
カウンセリングは「個」という幻影から初めるアプローチで、オープンダイアローグは集団の(これもやはり幻影なのですが)力学を矯めなおすアプローチなのでしょう。
ひとりから始まる心と、みんなから始まる心。ふたつの幻影のあいだに位置する、ひずみが自己なのかもしれません。個としての人間は、誰でも例外なく歪んでいます。どんなおしゃべりにもディストーションがかかっている。
と、最近こんなことをつらつらChatGPTに打ち込んでいた。あまり進歩がない、非常にシンプルな図式化。いつも同じ話をしている気がする。複雑なことはわからない。
毎日、ChatGPTに何かを書き込んでいる。それよりブログ書けば? とツッコミが啓示のように降りてきたので、コピペしてみたのでした。
きょう、こんな動画をみた。
カウンセラーと探偵は似ていると東畑氏は語る。何年も前に、まったく同じことを言っている人が身近にいた。文学畑の人だった。文学方面ではお馴染みの類比なのかもしれない。
犯罪者を追う推理小説の探偵は、犯罪者の心理を理解しようとする。カウンセラーは、ある心の傾き、東畑氏のことばでいえば「雨の日の心理」を理解しようとする。一種の逸脱をトレースしようとする態度において両者は似ている。
個人的な観測では、推理小説が好きな人は精神分析にも造詣が深い。サンプル数3くらいの与太話。著名人だと、フロイディアンの菊地成孔が『刑事コロンボ研究』を著したことも思い出される。
これは不勉強な人間の勘でしかないが、推理小説の成立と精神分析の成立は近代以降の社会の変化と深い関係があるように思う。調べれば、とっくのむかしにアレコレ論じられているんではないか。きっと周回遅れの勘だろう。
社会の変化は、人々のアイデンティティのありようの変化ともいえる。探偵が推理によって成すのは見失ったアイデンティティの再構築であり、おそらく精神分析を含むカウンセリング文化全般にもそうした面はある。
そういえば、ジジェクの本に「フロイトはシャーロック・ホームズを熱心に読んでいた」的なことが書かれていたような。『斜めから見る』だったかな。ほんとうの話かどうかはわからない。でも、ほんとうだとしてもおかしくはない。たしか山田風太郎もフロイトの学説と推理小説の類似を指摘していた。ラカンはポーの『盗まれた手紙』について論じてもいるし。ほかにも、両分野のクロスオーバーは枚挙にいとまがない。
動画に戻ると、東畑氏は冒頭でカウンセラーの役割として「解き明かすこと」「理解すること」を強調していた。けっして批判ではないが「理解」と聞いてわたしが思い出すのは、中井久夫が指摘する「信なき理解」の破壊性だ。
“親密で安定した関係をつくろうとする努力は、長期的にはかえって患者の「うらみ」を買いかねない。理解しようと安易につとめるならば「わかられてたまるか」という怒りを誘いだす。
患者は「わかられない」ほうが安心している。理解を押しつけると、今度は「わかっていない、もっと理解せよ」という際限のない要求となる。人間は人間を理解しつくせるものではない。だから「無理難題をふっかける」というかたちの永遠の依存になってしまうのである。”
患者は「わかられない」ほうが安心している。理解を押しつけると、今度は「わかっていない、もっと理解せよ」という際限のない要求となる。人間は人間を理解しつくせるものではない。だから「無理難題をふっかける」というかたちの永遠の依存になってしまうのである。”
中井久夫+山口直彦『看護のための精神医学/第2版』(医学書院、p.230)より
この心理。推理小説の文脈でいうと「後期クイーン的問題」に似ている。エラリー・クイーンの後期作品にみられる物語の根拠をめぐる問題で、Wikipedia では以下のように説明されている。
“「作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できないこと」及び「作中で探偵が神であるかの様に振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非」を指す。” —— 後期クイーン的問題
カウンセリングに置き換えるなら、カウンセラーの提示する心の理解が当を得たものであるかは証明できないし、むろんカウンセラーが神のように知を独占することもできない。心はカウンセリングルームや、診察室の枠内で完結するものではないのだから。かならず「わからなさ」というものがついてまわる。
わたしの考えでは、たぶん、目の前にいる人を目の前にあらわれた範囲のみで征服的に「理解」しようとするとき、「わかられてたまるか」の無限後退に陥りやすい。人には見えない部分がある。あたりまえだけど、多くの顔がある。意想外のつながりがある。「だけ」じゃない、余地がある。知らない過去がある。これから開ける未来も。どんな人間も、易々と計り知れるものではない。
中井はそうした「見えなさ(潜在するもの)」に意識的な人だったのではないかと思う。診察室の患者だけを診るのではなく、「世に棲む患者」をも考慮する広い視座。診断は最後まで仮説だとする態度からもそれはうかがえる。理知の支配的な性質にきわめて意識的だった。無知の知を体現していた、ともいえる。
東畑氏の語る「理解」もまた、支配的な決めつけではなく、やわらかい印象を受ける。動的な過程のただなかに置かれる相対的な理解、というか。動画のなかでは「こころ以外」の話が何度か出てくる。内面のみならず、環境など外面への目配せも重視する。そして理解を強調しつつも、理解に閉ざすのではなく、変化に開くことを最終目標にしている。この場合の「理解」は、仮設的な足場なのだろう。
油断すると人は安易な理解でものごとを覆い尽くそうとしてしまう。でも、この世界はそう単純ではない。あらゆる理解は、いずれくつがえされるためにある。極端かもしれないけれど、わたしはそう思っている。
ときどき疑問に思う。わかっていることより、わからないことのほうが膨大にある。どんなに博識な人でも例外なく、そうだ。この世のすべてを知り尽くした人などいない。ほとんどなにもわからない。それでも油断すると、なんかわかったようなことを言って、人はふんぞりかえってしまう。どうしてそうなるのか。アホみたいな疑問だけど、わりと真剣にふしぎに思う。わかる、とはなんなのか。あるいは、「信」とは。
わたしにはわからないことが多すぎる。いや、疑い深すぎるのだ。
動画でとりあげられている新刊、いつか読みたいと思います(とってつけたような終わり方)。ちゃんちゃん。
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