ある土曜日の夕方、散歩中、信号待ちの時間。どこからか森高千里の「渡良瀬橋」が響いていた。音の発生源は、派手な改造が施されたバイクだった。異様に長く反り立つ座席の背もたれ部分には「國士が集い惡を討つ」と筆文字で書いてあった。遠めにいたので乗っている人物の顔はわからなかったが、日章旗柄のヘルメットは確認できた。さらに紫色の特攻服みたいな衣装に身を包んでいた。「古き良き暴走族そのもの」といった完璧な風情。しかし、なぜ爆音の「渡良瀬橋」なのか。そこだけが腑に落ちなかった。「暴走」とはほど遠い。しみじみ黄昏れてしまうではないか。しかも場所は、ちょうど橋の上。夕日がきれいな時間だった。曲は終わりがけ。
わたしのそばで信号を待っていたおばさまたちは、音に合わせ静かに揺れていた。信号の色が変わると、爆音の森高も静かに走り去っていった。見た目とは裏腹にエンジン音はかなり静かだった。森高だけが爆音で、この点も不可解に感じた。あれはなんだったのだろう。
とにかく森高を聴きたいし、聴かせたい人なのかもしれない。あるいは、そう、あのバイクは単独で走っていた。群れから離れひとり家路につく暴走族は、ああいうふうに丸くなるのかもしれない。わからない。いずれにしろ、よい信号待ちの時間を提供してもらえたと思う。いままで聴いた「渡良瀬橋」のなかでいちばんよかった。
けっして交わりそうにない人々が、森高千里の「渡良瀬橋」という共通項を介して一瞬だけ交わる。特攻服らしき衣装のパーフェクトヤンキーと、そこにたまたま居合わせたわたし、見知らぬおばさま方。あのときだけ心が通った気がする。わずかな時間、音楽が交差点として機能した。
人と人が出会えるのは、こうしたごくわずかな僥倖でしかないのだと思う。たまたま、タイミングが合えば。すれ違いつづけることが普通で、会えることは滅多にない。というより、会うことさえすれ違いの一形態なのだと思う。それでいい。
数日前、“sonder” という造語を教えていただいた。John Koenig『The Dictionary of Obscure Sorrows』という造語の辞典に載っている(邦訳はない)。ネット発の、まだ名前のない複雑で微妙な感情に名前をつけてみよう、という企画が2021年に書籍化されたものだそう。“sonder” はその代表的なことばで、以下のような意味。
“すれ違う人が自分と同じように鮮やかで複雑な人生を送っているという気づき。それぞれが自分自身の野心、友人、日課、過ち、勝利、そして受け継がれてきた少しの狂気……そうしたものの積み重なりを背負いながら。それはまるで地下深く広がる蟻の巣のように、あなたの目に見えない形で続いており、あなたが存在を知ることのない、何千もの人生への複雑な通路がある。それらの物語のなかで、あなたが登場するのはたった一度きりかもしれない。背景でコーヒーを飲むエキストラとして。高速道路を走る霞んだ車の影として。あるいは、夕闇にぽつんと灯る窓の光として。”
自己という主体が後景に退くような感覚を描いている。わたしは人生において、自分が「主」であることなんかないのではないかと思う。卑屈なつもりも謙虚なつもりもなく、単なる事実として、そう考える。この世に偶然発生して、仕方ないからすこしだけお邪魔している客人に過ぎない。ほとんどの人は自分のことなど知らない。歯牙にもかけない。通りすがって、いなくなる。それを繰り返して日々が過ぎる。ときどき意味らしきものを拾う。それもまた偶然に。
偶然は空から降り注ぐ宇宙線のように絶えずそこにある。バラバラな細片として。そんな偶然をかき集めて、なんとか意識にのぼる形にしたものが「自己」として結実する。それは他者も同じで、わたしたちはバラバラなものをつなぎとめようと躍起になり、いつもおしゃべりばかりしている。偶然などありえないかのように。
バラバラなものは、バラバラでしかない。それが現実だと思う。つながりなんてないのに、そこにつながりを幻視する。それが知性と呼ばれる。なんにも関係ないけれど、関係があるかのようにことばをつなぐ。連綿たる幻想が人の営みをつくる。
ことしもたくさんの人とすれ違った。つなぎとめておけたものはほとんどなく、流れ去る風景だけが鮮やかに尾を引く。見えないもの。いなくなった人たち。失ったこと。語られることのない話。こぼれ落ちた時間。そちらが「主」なのだと、わたしはそう感じる。膨大な未知に包まれたなかの、ごくわずかな領域に自分の既知の世界がある。たいていのことはわからなくて、それがふつうです。
来年以降も懲りずに、頭の悪さを発揮して自分の関心を掘り下げていけたらと思います。世情から遠く離れて。気が向いたら書く。読む人はそんなにいないから、気楽に。やる気もそんなにないのですが、いまにも潰えそうなモチベーションを支えてくださる横浜市中区伊勢佐木町の古書店、雲雀洞さんに感謝を捧げます(ここを読んでくださっているらしい)。
いいお店です。極私的に好きなのは、店主さんが自分にだけ聞こえる程度の音量でかけている、うっすらしたラジオの音。なんとも味わい深い。いい感じの店内BGMを流してバッチリ空間演出している古書店も好きだけれど、「ひとりぶんの音量のラジオ」の奥ゆかしさもたまらないものがあります。ときどき音楽を聴かれているときもあって、それもひとりぶんの音量。たまんねえな。そんな、そっとした素振りにキュンとしてしまう。古本とはぜんぜん関係ない話で恐縮ですが、神は細部に宿るのです。横浜、桜木町方面へお越しの際は雲雀洞へお立ち寄りください。
個人が営むお店は、私的につくられ過ぎていると入りづらく、侵入者のような気分になる。かといって、無難に開かれ過ぎていても面白みがない(すこしは侵入者でありたい)。そこそこ開きながらそこそこ閉ざすバランス感覚が試される気がします。あるいは、個人ブログも似たようなものかもしれません。というか、人間関係ってそういうものかもしれません。
排他性は魅力につながる。でも、やんわりとした入口/出口も確保しておかなくては特殊な人しか寄りつかない。排除されたくないし、取り込まれたくもない。適当に入ったり出たりしたいのです。会ったり別れたり。いたりいなかったり。そうした流れ去るような在り方が理想的かなと思う。できるだけ自然に流れていたい。
そういえば、精神科医の尾久守侑氏が思春期の患者さんとの「間合い」について、こんなことを書いていました。
“自然な間合いまで自分を晒し、本当に心配していると同時に、大して心配していないという矛盾した心理状態を保つことが、比較的普遍性のあるスタンスとして、多くの治療者に受け入れられやすいのではないかと思う。”
『倫理的なサイコパス』(晶文社、p.75)
ちゃんと心配するし、ちゃんと心配しない。どんな関係にも当てはまる距離の取り方かなと感じます。自分自身との距離もふくめて。
話が逸れてしまいました。伊勢佐木町の商店街には雲雀洞さんの他にも古書店が点在しており、ヒマなときぐるぐる巡っています。横浜のあのへん、なんかごちゃごちゃしてて歩くだけでも楽しいです。
それでは。
よいお年をお迎えください。
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