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1041 東浩紀『平和と愚かさ』などのこと

考えなくとも自然にできること/やってしまうことって、ふしぎに思う。たとえば睡眠や排泄、歩行、姿勢の維持、呼吸、目で見ること、耳で聞くこと、さまざまな感情の表出、ふと他人の視線を追ったり、とっさに表情をつくったり、などなど……。どうやってる? と問われても答えられない。日々たくさんのことを、なんとなく自動的にやっている。

むろん、そうしたことができなくなるときもある。そもそも視覚や聴覚がない人もいる。べつの状況に触れて初めて考えることが必要になる。備わっていたもののふしぎさに、はたと気がつく。

わたしは不器用な人間で、「自然にできる」とされていることができないこともままある。だからたぶん、人よりふしぎを感じることが多い。考えてしまう。なにかと不安は大きい。でも案外、得な気質なんじゃないかとポジティブに捉えている。いつまでもこどもみたいに、なんでもふしぎだ。

さいきん、『平和と愚かさ』という本を読んだ。著者は哲学者・批評家の東浩紀氏。世界各地を旅しながら考えたこと、感じたことが綴られている。旅をすることは、「べつの状況に触れる」ひとつの方法だろう。本の分厚さにビビるが、開いてみると平易な筆致で読みやすい。紀行文が大半で写真も多い。それでいて複雑な含みも湛えている。

平和と愚かさはともに「考えないこと」の表現である点で共通している、という話から始まる。氏は「考えないこと」について揶揄するでもなく、必要以上に持ち上げるでもなく、人間の一側面として包括的に考えていく。


“多くのひとが平和だと感じる状況においては、ひとは戦争を戦っていないだけではない。そもそも戦争について考えていない。少なくとも考えないことが許されている。それが重要なのではないか。”

『平和と愚かさ』(p.22)


平和という概念もまた考えずとも「自然にできること/やってしまうこと」に近いのかなと思った。それだけに、ことばにしづらい。平和は、考えはじめた瞬間にぎこちなくなるようなたぐいの性質をもつのかもしれない。

『平和と愚かさ』の内容は多岐にわたるが、冒頭の着想からだけでも多くの連想が浮かぶ。人間の営みについての思考がみっちり詰まっている気がする。以下、ここから考えうる私的な連想をメモしておきたい。

まず思い出したのは、山形浩生がジョージ・エインズリー『誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか』を引き合いに出して書いていた、幸福研究への批判だ。エインズリーは直接的な願望充足ではない、間接的なアプローチの必要性を説いている。


“そしてかれは、人がそれを無意識に知っているんじゃないか、という。いきなり何でも自分のほしいものを直接ドンと手に入れちゃえば、かえって不満に思う。むしろそれを手に入れるプロセスが重要なのかもしれない。それをあらわすものの一つは、役所の名前だ。国民の幸福が重要なはずなのに「幸福省」というのはない。真理探究が重要だといいつつ「真理省」はない。平和を望むといいつつ「平和省」はない。商売繁盛を狙いつつ、「繁盛省」はない。みんな、そうしたものはあくまで結果であって、それ自体を直接操作目的にしてはいけないというのを知っているんじゃないか、という。

これはあくまで一説だけれど、ぼくは重要な論点だと思う。人が幸福を本当に得るためには、幸福を直接考えちゃいけないのでは? アラニス・モリセットだか禅の悟りだかみたいな話だけれど。でも幸福研究は往々にして、それを無視してしまうように思うのだ。”

幸福の遺伝子、または喜びの伝達物質


上記のように、人々が求めてやまないものでありながら、それ自体を目的化するとむしろそれが遠ざかる、あるいはカルトやディストピアに接近してしまう諸概念というものがある。

ただトランプ大統領は「平和省」どころか「戦争省(Department of War)」の呼称を復活させており、もし今後アメリカで「真理省」「繁盛省」などが立ち上がったとしても「トランプならやりかねない」と納得できてしまう現状だが(彼の「皮肉が通用しない感じ」は非常におそろしい)、それはそれとして一般に間接化の必要は言えるんじゃないかと思う。

「こうすれば幸福になれる」「こうすれば儲かる」みたいな話に乗ると、むしろ詐欺にあう可能性が高い。幸福や儲けは損なわれるだろう。同様に平和も、直接目的化するとむしろ「平和のための戦い」を招きがちになってしまう、逆説的な性質がある。

たしかエインズリーは『誘惑される意志』のなかで睡眠も一例に挙げていた。眠ろうとすればするほど眠れなくなってしまう。睡眠も基本的には、それ自体を目的化すると遠ざかる。追いかけると逃げ、ぼんやりしているといつの間にか近づいてくるものだ。そういえば、むかし飼っていた犬もそんな感じだった。

ともかく、それ自体を操作目的にすると逆に遠ざかってしまうものが色々ある。ここからさらに連想するのは、東畑開人『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』における、アジールとアサイラムの話。

アジールとは、「聖域」「無縁所」「自由領域」などと訳される権力が及ばない空間のこと。罪人でもアジール内では罪に問われない。具体的には寺院や教会などの聖地を指すことが多い。


東畑氏の「アジール」はもうすこし汎用的な意味がある。法を犯すまでいかずとも、集団の規範から外れてしまい、なんとなく生きづらくなった人が息をつける場所を指している。隠れ家的な居酒屋とか、喫煙のために出るベランダとかもアジールっぽいかもしれない。歩道橋の上や、ビルの屋上なんかもアジール的だと個人的には思う。なにをするでもなく「ただ、いる、だけ」が束の間でも許される、そんな場所。すこし「死」に近い場所かも。

そしてアジールはバランスを損なうとアサイラムへと頽落してしまう、という。アサイラムは収容所などの人間を管理する施設を指す。アジールとアサイラムはもともと同一のことばで「表裏一体なのだ」と東畑氏は指摘する。

勝手に「ただ、いる、だけ」が成り立っていた隙間に、管理の手が入ることでその価値が失われてしまう。「勝手」は管理できない。自由はちょっとしたことで強制に変わる。つまり、それ自体を操作しようとするとその価値が失われる構造がここにもある。

アジールの価値は個別の背景に埋め込まれている。人が息をつける居場所は、それぞれの人が生きてきた日々の軌跡のなかで機能しており、一部だけを取り出すことができない。固有の文脈を削ぐと失われる。


 “ぐるぐると回っているときには、価値を持っていた「ただ、いる、だけ」は切れ切れになると、決定的に無価値なものになってしまう。それらは文脈を失うと、グロテスクなまでに無意味なものに見えてしまう。
 こうして居場所は失われる。だって、無意味に見えるものこそが、生きづらい僕らの隠れ家として機能していたからだ。そこに自由があったからだ。”

東畑開人『居るのはつらいよ』(p.329)


わたしには路上の写真を撮る習慣がある。ときに何時間もむやみに歩く。おそらく他人から見るとまったく意味不明な行為で、自分でもなんでこんなこと何年も続けてんのかとたまに思う。考えずに回っていたときにはよかったことが、考えはじめるとまるで無意味に思える。そして事実、無意味である。しかし成り行き上、それをはじめてしまったので続けている。ほとんど「ただ、いる、だけ」の非生産的な時間を。このブログも同じだ。

「考えないこと」はすなわち、べつの文脈を考慮しないことであり、それは個々人が個々人の文脈に埋没するから実現される。手前勝手を通すこと。わたしはわたしの人生をやるしかない(愚かにも!)。

東畑氏の「アジール/アサイラム」の考え方は、構造として東氏の「平和/愚かさ」とも近い。扱っている事象はまったく異なるが、論理の骨組みは似ている。

平和は考えないことの広がりで実現される。であるがゆえに愚かさ(加害の可能性)とも表裏一体である。愚かさをなくすため、つねにあらゆる可能性に配慮しようと気を張ると平和もなくなる。

アジールは規範の外側にはみ出た人をかくまう。「規範の外」という意味では愚かさと表裏一体で、しかしだからといって規範の網の目を隅々まで行き渡らせると、人が息をつける居場所はなくなってしまう。

どちらにも「あちらを立てればこちらが立たず」の図式が認められる。

さらにいえば、『平和と愚かさ』からは「アジール的思考法」のごときものが読みとれる。東氏の筆致には「罪」を金科玉条とせず、いったん棚上げにして個別の文脈から「愚かさ」を捉え直すような態度がある。むろん、戦争に端を発する歴史上の数々の過ちは愚かには違いない。それは間違いない。その上で、しかし罪を問う正義の権勢とは距離をおき、「正しさ」を言う前に、ひとまず「愚かさ」をも含み込んだ人間の姿を捉えようとする。そこを「知的誠実さ」ととるか「せやからアカンねん」ととるかは、人によって分かれるのだろう。

ゲンロンカフェという特異な空間の立ち上げもふくめ、東浩紀という人は生涯をかけてアジール的なるものを探索しつづけている人なのではないかと、わたしはひそかに感じている。そんなに東氏のお仕事をフォローしているわけではないので、適当なことは言えないけれど……。

ややマイナーな関連づけながら、自分のなかで「アジールを探索する人」とひそかに位置づけている人物がもうひとりいる。大手廃墟サイト「廃墟検索地図」を運営している石倉優という方。わたしは長年、この方のファンである。そして石倉氏が記述する「廃墟」も、「平和/愚かさ」「アジール/アサイラム」と構造的に類似している。

廃墟は「解体されても再生保存されても、消滅してしまう」という。いわば、放っておかれる限りにおいて、それは成立する。配慮されると消える。廃墟とは、どこかの時点でそれについて誰も考えなくなってしまった、「平和と愚かさ」の産物とも言えそうである。

また、廃墟カルチャーにも似たような板挟みの構造があるという。グレーな文化であるがゆえに「正しさ」を叫ばれると命脈を保てない。災害や戦争などで世の情勢が不安定化しても廃墟美どころではなくなる。そこそこ平和でそこそこ愚かな時間に支えられている。廃墟もそれを取り巻くカルチャーも「光と闇の絶妙なバランスの上で成り立っている」と石倉氏は分析する(写真集『Chronotopographics』所収の文章、および補遺の小冊子に詳しい)。

「廃墟」という、間延びした放置状態によって支えられる場所は、いわば「平和のコスト」なのではないか。

精神科医の中井久夫は、戦争をエントロピーの大きい(無秩序性の高い)状態、平和をエントロピーの低い(秩序立った)状態と表現している。そして平和は、自己維持のため高いエントロピー(無秩序)をどこかに排出しなければならないのだと。


“部屋の整理でいえば、片づけられたものの始末であり、現在の問題でいえば整然とした都市とその大量の廃棄物との関係である。かつての帝国主義の植民地、社会主義国の収容所列島、スラム、多くの差別などなどが、そのしわよせの場だったかもしれない。それでも足りなければ、戦争がかっこうの排泄場となる。”

中井久夫『樹をみつめて』 所収「戦争と平和についての観察」(p.61)


中井も簡明な筆致で「平和」の裏にある「愚かさ」を書く。「廃墟」は平和という間延びした時間の自己維持によって周縁化された廃棄物なのだろう。それは物質的な廃棄物であると同時に、時間的な廃棄物でもある。わたしは、石倉氏の制作に「顧みられない時間」への鋭い感受性をみている。

すこし角度は変わるが、かつて氏が「仲良くなること(飼い慣らすこと)」について書いていた記事を思い出す。サン=テグジュペリ『星の王子さま』にキツネを飼い慣らすエピソードがある。その部分を引きながら、ゆっくり時間をかけることを説いていた。世界に区切りを入れる「線」は厳然としてあるが、時間をかけることで、うっかり「線」を忘れるときがある、と。そして「飼い慣らす(apprivoiser)」というサン=テグジュペリの語彙を以下のように解説する。


“apprivoiser は「(動物等を)飼い慣らす」という意味で、普通人間同士には使いません。この場合はキツネだから確かに動物なのですが、『星の王子さま』のキツネは言葉も喋る大変賢いキツネですから、apprivoiser はちょっと不自然です。 
 それでも apprivoiser を選んだのには、「線」に対処するには、理性をアテにせず、時間を惜しまず、動物を飼い慣らすように馴染むしかない、というサン=テグジュペリの直観が表れているように思います。”



人と人は往々にして理性的にではなく、動物的に仲良くなる。たぶん会う頻度や相性やタイミングなどの偶然によるところが大きい。計算尽くで仲良くなるわけではない。しかも仲良くなるとたいてい、どうやって仲良くなったのか、それ以前のことを忘れてしまう。わたし自身、「よくわかんないけど付き合い長いよね」みたいな関係がいくつかある。どうでもいい時間の積み重ねが可能にするものだからだろう。

「忘れること」については『平和と愚かさ』でもすこしだけ触れられている。「考えないこと」も「忘れること」も直接的に目指すことはできない。時間がかかる。あるいは、ふとしたこと。

「顧みられない時間」に関連して、『平和と愚かさ』に印象的な場面がある。さいごに、ここだけ触れて終わりたい。

東氏の一行はチェルノブイリの原発事故で廃墟となったプリピャチの団地を訪れる。そのときのことがアメリカのHBO制作のドラマ『チェルノブイリ』と重ね合わせるようにして語られる。

プリピャチの街をまわるなかで氏はふと、原発事故の原因をつくった若い技師トプトゥノーフ(加害者)と、プリピャチの元住民でガイドのシロタ(被害者)、このふたりがまだ加害と被害に分かたれる前の(事故が起きる前の)、なんてことのない日常を想像しようとする。


 “そのとき、シロタが、まるでドラマに登場した少年の未来のすがたのようにみえた。
 それは奇妙な錯覚だった。目のまえのシロタは四〇歳を超えた中年男性で、ドラマのモデルだったわけではなく、トプトゥノーフとも関係はなかった。シロタが話しているのは、現実の被災の体験で、それをアメリカ人がつくったグローバル市場向けの虚構と混同するのも、あってはならないことだった。けれどもぼくは一瞬、むしろその虚構のプリピャチこそが現実で、こちらの現実の死んだプリピャチのほうが虚構で、目のまえの廃墟はすべて一九八六年の「シロタ少年」が抱いた悪夢にすぎず、ぼくも上田もそんな悪夢のなかに紛れ込んだ無名のエキストラにすぎないかのような、そんな錯覚を抱いてしまったのだ。”

『平和と愚かさ』(p.308)


ここを読んでわたしは、東浩紀の小説『クォンタム・ファミリーズ』の一節を想起した。


“──ひとの人生は、過去になしとげたこと、現在なしとげていること、未来でなしとげるかもしれないことだけでなく、過去には決してなしとげたことがなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも支えられている。そして生きるとは、なしとげるかもしれないことのごく一部だけを現実になしとげたことに変え、残りのすべてを、つぎからつぎへと容赦なく、仮定法過去のなしとげられる《かもしれなかった》ことのなかに押し込めていく作業だ。”

『クォンタム・ファミリーズ』(p.252)


ひとつの現実のまわりには、多くのありえたかもしれない想像の余地が広がっている。人の記憶はつねに揺らぎとともにある。それはともすれば一笑に付されたり、妄想に過ぎないと捨て置かれるたぐいの記憶かもしれない。じっさい、《かもしれなかった》は生きていくなかで必然的に発生する記憶の廃材みたいなものだろう。でも、きっと、人の生きる時間はたくさんの《かもしれなかった》可能性にも支えられている。

廃墟をモチーフに写真作品を制作する石倉優氏からも、わたしはこれと似たような感性を受け取っている。氏の写真以前の文筆活動からもそれは感じる。「顧みられない時間」を幻視すること。

自分自身、こうした感覚に親和的な性格なのだと思う。齋藤塔子『傷の声』という本について某所で話したとき、わたしは以下のように述べた。

すべての人には来歴や未来がある。「いまここ」だけではなく、人はさまざまな時制に照射される存在であり、絡み合った複数の時を紐解いて人間の像をつくっていくことがひとつの文系的な知性の在り方だと、わたしは信じている、と。

『平和と愚かさ』では、個人的に信ずる「文系的な知性の在り方」が実践されているように感じた。人に限らず、土地にもことばにも個別の来歴があり、正しくも愚かしくもありうる重層的な時間をふくんでいる。いくつもの時を訪ね、束ねる。それはすなわち、「ものを書くこと/読むこと」の営みそのものでもある。絶えず余分な次元への欲求を抱くこと。これは冒頭の「べつの状況に触れる」話ともつながる。

「あれかこれか(to be, or not to be)」は悲劇の語り口で、「あれもこれも(to be, and not to be)」は喜劇の語り口、という話を聞いたことがある。一回性に基礎づけられた単数的な世界観と、繰り返しに基礎づけられた複数的な世界観。

何事にも両者の要素がふくまれているものだが、『平和と愚かさ』の筆致は、悲劇的なテーマを扱っていながら、「あれもこれも」に近い。とはいえ至って真面目に語っている。至って真面目です。でも紀行文という形式の妙もあり、重苦しさはない。ふしぎに明るい本だと思う。

まだ書けそうですが、このへんで終わります。

そいでは。






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