1月のこと。twitter でつながりのある写真アカウントの方とお会いした。人と会うのは、たとえ慣れ親しんだ相手でも緊張する。かならず直前にめんどくさい気持ちが湧き上がってくる。これは100%、わたしの気質的な問題で相手にはなんの問題もない。お風呂に入るのがめんどくさい気持ちと似ている。とかく、なにかとめんどくさがりで引きこもりがちな人間である。「風呂キャンセル界隈」ならぬ、「人間キャンセル界隈」の人間といっても過言ではない。
でもいちおう風呂には入るし、人とも会う。人間と会って人間をやらないといけない。なぜなら、わたしは人間だから。しかし、めんどくさい気持ちはどうしても晴れない。人間めんどくさい。いつも動物に焦がれている。あるいは空とか海とか植物とか。果ては宇宙とか。自然界に心理的な活路を求めがちかもしれない。年を重ねるごとにそれが加速している。
人にまみれるため、自分の気持ちをがんばって焚きつける。「大丈夫」と言い聞かせる努力が必要となる。だから週に1〜2回、1時間ほどの筋トレを欠かさない。軽いジョギングは毎日やる。人間をやるための気合いが人一倍、必要なのだ。たぶん日々の読書や勉強のたぐいも単純に気の弱さを補填する意味が大きい。筋トレと変わらない「武装」なのだろう。
あと瑣末なことだが、昨年12月31日に買いものを済ませたあと suica の残金が 888円だった。なんか来年は運がよさそう、と思った。年明け1月のある日にはスーパーの買い物で偶然 8888円の支払いを叩き出し、店員さんと謎に盛り上がった(このどうでもいい話は別途記事にする)。2026年は何かがありそう。そんなことを思い出しながら、待ち合わせ場所まで向かった。景気づけに「Eye of the Tiger」でも聴きながら。生卵を5個ほどジョッキに割ってそのまま丸飲みしておけば完璧だったかもしれない。
語弊があるけれど、人と会うことは自分の意志ではない。自分の意志では誰にも会いたくない。もののみごとに語弊しかない言い草である。「自分の意志」なるものがあるとすれば、それは否定性(No)のうちにしかないと思う。誰かと会えるのは、「自分の意志」なんかを超えた、もっと大きな「流れ」みたいなもののおかげだ。わたしは極力そっちを信じるようにしている。自分ひとりでは知るすべもない、大きな時間のつらなりのほうを。Yes を言うためには、自分からはみ出す必要がある。出会いはその始まりから自分の意志ではない。自分の意志は孤独を涵養するためにある。
やっと本題(はやく会えよ)。
お会いしたのは、quoさん(https://x.com/quoposk)と翳フミさん(https://x.com/kagefumi____)。quoさんとは3回目、翳フミさんとは初対面。誘ってもらえたのも幸運だと思う。感謝します。
3人集まると、ちょいちょい2対1に分岐して「余る人」がでてくる。上記のめんどくさい感じからも推測できるように、わたしは「余る人」のポジションを選びがちだ。すっといなくなる。たぶん友人・知人にも「余る人」が多い。「余る人」が集まると、そのなかでも「さらに余る人」が生まれる。わたしは「さらに余る人」にもなれる。全国の「余る人」を集めて誰がいちばん余るのか王座決定戦を行ったとしたら、かなりいい成績を残せる自信がある。優勝候補かもしれない。
quoさんは気遣ってちょいちょい「今日はなんかおとなしいね」と心配してくださった。なにをおっしゃいますか、俺は余る人王になる男だと、この場を借りてお伝えしておきます。その場では、「いつもおとなしいですよ」と笑ってこたえていた。ふたりのときは余らないのでしゃべっているけれど、3人以上になると隙あらば余ろうとします。
うしろから眺めていると、翳フミさんとquoさんは心理的な距離が近いようすで、所作がところどころ同期する。身体間の距離も近い。たまにおふたりを盗撮した。腐女子みたいな目線かもしれない。
「同期」で思い出す。quoさんは撮影ポイントを意識的に真似して「その人の気持ちになってみる」とおっしゃっていた。撮影に限らず、そうした考え方はわたしもたいせつだと思う。なにごとも真似てみてはじめてわかることは多い。ときどき他人の口調や体の姿勢などを真似てみる。それでもわかんないことも多い。他人だから。
おふたりと歩いていて、「それ撮りたいよね」みたいな感覚が似ているのはおもしろいなと思った。もちろん異なる点も多いけれど、だいたいなんとなく「このへんいいね」とうなずきあえる。翳フミさんとわたしは生息域が近いので、べつべつの日に知らず知らず同じ場所を撮っていたこともある。暗黙のツボが似ているのだろう。この暗黙知はどこからくるのだろうか。わたしのほうがやや散漫な傾向はあるけれど。
自分の場合、撮ったものをなんも考えずにほとんどSNSに載っけてしまうが、翳フミさんquoさんはわりと選んでいるという。そのへんも異なる。
路上を撮る人同士で歩くと、「いまここ」の話ができてうれしい。いま目に見える、この場所を起点に話が広がる。木にさす陽光の質感とか、影のかたちとか、そういう。いまこの場から意識が遊離しているとたくさんのことを見逃してしまう。
花鳥風月を愛でる老人みたいだけれど、「いまここ」の話がわたしは好きだ。目に見える現場から飛躍した話は抽象的でなんだかよくわからない。「いまここ」に焦点を置くのは老人的であり、こどもっぽくもある。というか動物っぽい。人間の話は過去とか未来とかいろいろあってめんどくさい……。なにかと複雑に考えすぎなのかもしれない。シンプルがうれしい。
なんといいますか、ことばが苦手なのだと思う。ことばが苦手。ことばの解毒として、写真を撮っているふしがある。自分にとってことばというものは、毒っけが強い。どんなことばでも「わからないもの」として迫ってくる。「こんにちは」ひとつだって、根本的にわかっていない。意味不明な音を毎日浴びて、わからんまま自分でも使用する。言語以外の表現で定期的に解毒しないと気が狂う。
『ことばの前のことば』という発達心理学の本があって、このあたりに写真を撮るときの自分の態度を考えるヒントがある気がする。あたまからっぽでやってるから、ほとんど乳幼児の指差しに近い感じがする。これについては気が向いたらまたべつに書きたい。
あまりしゃべらないせいか、quoさんから「ながたさんに会うといつも、ながたさんの話をもうすこし聞きたかったなーと思う」とおっしゃっていただけて、それが印象に残っている。この日も、あれやこれや話題をふってくださったのに、自分はのらりくらりしていたような。足りないぐらいがちょうどいいでしょうと自己正当化しておこう。わたしもquoさん翳フミさんの話をもっと聞きたかった。
「お互いミステリアスに見える距離感」がちょうどいいのだと思う。「またつづきが知りたい」と思えるくらいの。知りたい余地がなく、「もうわかった」となるとそれはお別れのことばになる。自分自身についてもそうで、わたしは自分のつづきが知りたいと思う。もうすこしだけ。
他人のつづきが知りたい気持ちと、自分のつづきが知りたい気持ちはリンクする。物語はつねに相互浸透しつづけている。あなたのつづきがそのまま、わたしのつづきにもなりうる。逆もまた然り。人間ってそういうぐじゃぐじゃしたやつらだと思うから、めんどくさいのです。なにもかもすっきり清算したい気持ちもつねにある。
振り返ると、この日は3人が思い思いのものを与え合っていた。わたしはお菓子、翳フミさんはプリントした写真、quoさんはホッカイロ。なんとなくアイテムに人柄が滲む感じもする。どうかな。けっこう寒い日だったので、カイロの暖かさは沁みました。写真のプリントもうれしいものでした。自分も何枚かプリントしたいなと思いながら一向にやっていない。
昼過ぎから夜遅くまで、カメラ片手にぶらぶらするだけってのがほんとよかった。おとなになって、そんなふうに時間を共有できる関係は稀有だと思います。みんな何かに追われて血走った目で生きているから……。すこし強迫的にならないと適応できない社会だと思う。とくに都市部は。
歩いた場所は高島平と豊洲・辰巳の周辺。場所の話をもっと書くべきだったかもしれない。なんかいろいろ壮観でした。ばかみたいだけど、大規模な構造物を見るとそれだけで興奮する。「わーおっきいー」みたいな。
思い返すと、やはり話し足りない感じはある。心残りな「足りなさ」はたいせつなお土産だと思う。この日のわたしが元気なさげに見えたとしたら、それは事前に生卵5個ジョッキで丸飲みを怠ってきたせいです。以上。
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