2月29日(土) 「お兄さん、キャラメルコーンとって」。ご高齢の女性に、スーパーで話しかけられた。すこしはにかむような表情で棚の上段を指さす。「あれ。高いところの、とれん」という。関西なまりだった。「ありがとう、ごめんな」「いえいえ」。ゆったりとした口調。京都っぽいかなと思った。なんとなく。 柵に「じさつOK」。語弊があるけれど、やさしさを感じた。語弊しかない。たとえば、こんな種類のやさしさもある。としたい。外側を示唆してくれる。内にとどめられるばかりではしんどい。例外的なことば。窓みたいなものだ。穴でもいい。たまに、ぽっかりとひらける心の部分。扉ではない。 気まぐれにちらっと覗いて、「ひー」なんつって、もどる。ときどき開けて楽しむんだ。うつろな穴を。ひとつの、人間の習性ではないか。やさしさというより、ユーモアの精神にちかいものかもしれない。 本物のユーモアを身につけるためには、まずペシミズムの果てまで行き、深淵を覗きこみ、そこに何もないと見て取ってから、そろそろともどってくる…… 沼野充義『スラヴの真空』(自由国民社)より。たぶん。手元に本がない。読書メモから引いた。感覚として、しっくりくるお話だと思う。「何もない」を確認する。そしてもどる。「何かある」と思ってしまうと、ユーモアは遠ざかる。深淵に覗きこまれている。もどらなくては。そろそろと。 「ガルゲンフモール」というドイツ語のことばも想起する。絞首台のユーモア。「曳かれ者の小唄」とも訳される。花田清輝は「窮余の諧謔」と訳した。この場合、もどれない。しかし「何もない」に直面している点では共通している。もう先がない最果てにおいて、諧謔を飛ばす。 さいきん、祖母が「戦争より嫌だ」と口癖のように言う。ギャグのつもりらしいけれど、あまり笑えない。たとえば新型コロナウィルスのニュースを見ながら「戦争より嫌だわ……」とつぶやいたり、天気が悪いだけで「戦争より嫌だね」と同意を求めてきたりする。毎回毎回「そんなに……?」とおそるおそる聞き返すハメになる。 おそらく祖母にとっての「戦争」とは、上記の「何もない」に等しい概念なのだろう。つまり「ペシミズムの果て」に位置する。じっさいにそろそろともどってきた人間として、リアルガチなユーモアをご披露なさっているのだ。 「も...