どう足掻いてもかなしい。 と、Evernoteに記録していた。8/20。この日、かなしい出来事に遭遇したわけではない。「人間のかなしさ」みたいなことを漠然と思っていた、おぼろげな記憶。でも「どう足掻いてもかなしい」とだけ書かれたメモをあとから見つけると、なんだかおかしい。『幸せではないが、もういい』という本のタイトルを初めて目にしたとき、内容とは無関係に笑ってしまった、それと似ている。 どう足掻いてもかなしく、どう足掻いてもおかしいのだろう。感情は事もなく自己を裏切りひるがえる。忘れてしまう。忘却は恩寵であり、記憶の減免というか、基礎控除なのだと思う。「どう足掻いてもかなしい」そんな瞬間も数日後に忘却され(控除を受け)、ただの妙ちくりんなメモになる。あとから振り返ったときに湧くこの「へんな感じ」が思考するための余白なのかもしれない。控除のおかげですこし足掻く余地ができた。つまり、疑う余地ができた。疑いようもなく鮮明な記憶は、とても相手にしきれない。 すこしずつ忘れて、すこしずつ思い出す。それにより記憶が陰影を伴って彫琢される。明るすぎても暗すぎても視野はひらかれない。適切な部分化によって話はつうじる。部分化とは、見えやすいあかりを灯すこと。世界のすべての記憶へのアクセスはかなわない。わたしのすべての記憶へも、そう。つねに記憶は部分化される。 過ぎた時間の、ほんのわずかな部分が記憶として残る。記憶は「ありよう」ではなく「なくしよう」なのだと思う。どのようなかたちで目の前の現実をなくしてゆくか。写真は「なくし方の表現形」だと前に書いた。「なくし方」は広く、記憶の話ともいえそうか。 たとえば、いなくなった人を思うとき。目の前にいれば思い出す必要はない。あんまり居座られると、忘れたい気持ちさえ芽生えるだろう。人が能動的に記憶を訪ねるのは、「ない」に直面したそのときだ。あるいは本の感想を書くときも、いったんその本を閉じなければならない。必要に応じて参照するが、基本は閉じて書く。読み始めると書けなくなる。夢から醒めないと夢の内容は語れない。つまりはそういうことなのだと思う。 夢の名残を語る。すでにない時間を、いまいちどかたちづける。記憶をたぐることで人はふたたび夢に向かって目醒めなおす。「死者を立たすことにはげもう」と富士正晴は書...