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日記744


アニメ監督、今敏さんのブログを読んだ。SNSで定期的にリンクを見かける。読むのは3回目くらい。ことしは没後10年で、いくつかの映画館が特集上映を行っていた。さいごに更新された遺書のような文章には、逆説的にも生気があふれていると思う。自分の亡きあともなおありつづけるこの世界を、いつまでも思いなす。そんな祈りにあふれていると。


自宅に見舞いに来てくれた丸山さんの顔を見た途端、流れ出る涙と情けない気持ちが止めどなかった。
「すいません、こんな姿になってしまいました…」
丸山さんは何も言わず、顔を振り両手を握ってくれた。
感謝の気持ちでいっぱいになった。
怒涛のように、この人と仕事が出来たことへの感謝なんて言葉ではいえないほどの歓喜が押し寄せた。大袈裟な表現に聞こえるかもしれないが、そうとしか言いようがない。
勝手かもしれないが一挙に赦された思いがした。

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日記742で書いた「ごめんなさい」「いいよ」「ありがとう」。このかたちだと思った。「いいよ」は明示されない。丸山さんは何も言わない。言う必要がない。関係性の裏にある時間の堆積がおのずと物語り、何事かがつたわる。ことばはないけれど、意味がある。わたしにその「意味」はわからない。なんにも。ひとつもわからないくせに、どうして目がうるんでしまうのだろう。身勝手なものだ。

 


生きている。この状態はとても曖昧だと思う。会ったこともない人の「死」に、文字列のみで接して涙できるほど曖昧なのだ。存在と不在の境界さえよくわからない。

人間はみな、適度にいたりいなかったりする。たとえば、ひとりの人がふつうに玄関を出ていったあとの不在と、亡くなったあとの不在、この両者にちがいはあるのだろうか。そんなことを、ちいさい頃からよく考える。どちらもいないことには変わりがない。

玄関から出ていくふつうの不在は、いわば「いなくならずに、いなくなる方法」なのだと思う。安心して気兼ねなく、いなくなる。アクセス可能な不在。とくに意識せず「ふつうの」と書いた。この「ふつう」によって補完される想像力がわたしは気になっている。「地続きの」と言い換えることもできそう。

亡くなった人もまた、時間の経過とともにやがて「ふつう」の範疇へと収まる。「いない」というかたちでの存在が認められる、ような。やはり「いなくならずに、いなくなる」。死の直後は不在が際立つものの、そこから儀式を通過し、生活のサイクルを取り戻すにつれて想像的にアクセス可能な「不在としての存在」へと徐々に変換される。

あまりにも人間は、いなくなれない。どんな不在も、生者の曖昧な時間に飲み込まれてしまう。人間は人間の不在を、単なる不在として取り扱えない。「どこかにいる」と思ってしまう。カーブの向こう側や、壁を隔てた向こう側も世界が地続きであると自然に解釈するように。死者も隔たれた「どこかにいる」と。

もしかすると人は「不在」なるものに耐えられないのかもしれない。あるいは、やや飛躍気味にこうも言える。人は「個」であることに耐えられないのではなかろうか。

いないものはいない。いるものはいる。そんな時間の一方向性に耐えられない。わたしがわたしとしてのみ、生きて死ぬ。この一方向性にも耐えられない。どこかであやふやな境域を差し挟まないと、おそらく気が狂ってしまう。いすぎてはいけないし、いなさすぎてもいけない。だから、適度にいたりいなかったりする。自分自身ですら。

わたしたちには「あやふやな境域」が必要不可欠なのだろう。目に見えない、想像的な記憶の境。現に、意識を失うあやふやな時間が1日のうちにかならず訪れる。眠るとき。あるいは眠りのための、なにをするでもないひととき。曖昧な明滅のとき。

眠った人は「いなくならずに、いなくなる」。玄関から、ちょっとコンビニへ出かけるように。いない。もう寝てる。どうしようもなくあやふやで、たまにすこしだけ、かなしくなる。毎日のことなのに。たぶん、個人的な感覚では「死」もさほど変わらないのだと思う。いつの間にか。なんだか、途方もなく曖昧だ。なにもかも。



 

 

コメント

anna さんのコメント…
「適度にいたりいなかったりする。」のところで、量子力学のコペンハーゲン解釈とかシュレディンガーの猫の話しとかを連想しました。そう、私たちも含め量子的なレベルでは存在することと存在しないことは同時に存在しているんですよね。ていうか、そんな話の前に猫を毒ガスが出る箱の中に閉じ込めるシュレディンガーは許せない。
 アニメ監督の今敏さんという方は知りませんでした。検索したら「今敏監督・パプリカ」って出てきたんで、あ~、あのみんなの歌のパプリカのアニメ?って勘違いしてしまいました。全然違ってた。

nagata_tetsurou さんの投稿…
ちょうど「いる/いない」は「見られる/見られない」にも対応するなーと思っていました。そうすると、いよいよ量子論っぽくなります。でもわたしはその手の話をきちんと理解しているとは言えないので、及び腰です。物理的な外側の問題よりも、人の認識的な内側の問題を考えています。じっさいは交差しているんですけど……。物理に関しては「ねこしんじゃやだ」ぐらいしか言えない。好きですが、下手の横好きなので。

全卓樹という物理学者の本をことしは2冊読みました。『エキゾティックな量子』、『銀河の片隅で科学夜話』。ご興味がおありなら、おすすめです。『銀河の片隅で~』のほうが読みやすいかな。おもしろいですよ。

わたしは逆に「パプリカ」と聞くと今敏の作品を連想しちゃいます。原作の筒井康隆を連想する方もいそうです。いまは圧倒的に米津玄師ですね。野菜すら圧倒しているかもしれない……。
anna さんのコメント…
あ、すごい。普通に会話しててシュレディンガーの猫の話しをちゃんと意味を理解して返して貰ったの初めてです。量子力学は私もあんまりわからないですが、化学領域というか分野として確立していく過程での神学論争のような物理学者同士のやり取りが面白いなあと思います。ダブルスリット実験という有名な実験の結果に学者さんが当惑するところとか。銀河の片隅で~の本も読んだことないので、今度、本屋さんに行って探してみます。
nagata_tetsurou さんの投稿…
annaさんは、ときどきコメントで物理のお話をされますね。お読みになったかわかりませんが「物理学者同士のやり取りが面白い」といえば、ハイゼンベルクの自叙伝『部分と全体 私の生涯の偉大な出会いと対話』(みすず書房)です。

ほとんど全編を通じて、その「やり取り」が記されています。対話に次ぐ対話、みたいな。量子論に懐疑的なアインシュタインが、ニールス・ボーアに何度も疑義を呈す場面なんかたまりません。「量子論は、普通の言葉の枠内ではうまく語れない」といったような話をボーアはしています(いま、たまたま開いたページ)。それはとても本質的な気がする。未読ならぜひ。