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日記742



宗教性は日常言語に浸潤している。南直哉と鎌田東二の『死と生 恐山至高対談』(東京堂出版)を読みながら、そんなことを思った。禅僧の南さんは、死ぬ間際の人と対話をすると、どうも似たような話になってしまうのだとか。そこから彼は「自分の思っている宗教的な感覚に近い言葉」を語る。


(…)そのときに不思議といつも言うことになるのは、「わびたいと思うことがあったら、今わびといた方がいい」という言葉です。それで、「もし、わびたい人がこの世にいないんだったら、私に言いなよ」と言ったことがあるんですよ。今までそんなことが三、四回ありました。そんなことをなぜ自分が言うのかと考えてきたのですが、いま鎌田先生に言われてわかりました。私にとっては、ふだん使う言葉で最も自分の宗教性というか、自分の思っている宗教的な感覚に近い言葉は「ごめんなさい」だと思いますね。先生にとってそれは「ありがとう」なんですね。p.272


あくまで「私にとって」「先生にとって」と、個人的な感覚として語っておられるけれど、そうでもないのではないか。何気ない日常のことばに宗教性が宿っているのだと、乱暴な臆見として拡大解釈したくなる。日本人の宗教観は、対象化して「それ」と名指せないほど日本語そのものに浸潤している。

思いだすのは、祖母のことだ。乳がんの摘出手術を受けた直後、混濁する意識のなか連呼していたことばが「ありがとう」だった。なにを話しかけても「ありがとう」と言う。話しかけなくても言う。感謝の意だけではなく、すがるような響きもあった。あのときの「ありがとう」はあきらかな宗教性を帯びていた。

あるかないかギリギリの、意識の下限において発される「ありがとう」。「寝言は神への祈りだ」と、たしかウィトゲンシュタインがどっかに書いていたと思う。祖母の「ありがとう」はそう、寝言のようにほとんどリズムだけの、かすかな吐息だった。意味のないリズムの運動、そのかたちとしての「ありがとう」。念仏にも似た。南さんのお話は、そんな個人的な体験とリンクした。

祖母本人は「無宗教」と話すけれど、こちらから見ればふだんから「ありがとう」に殉じる宗教観をもつ生活者だった。神主の鎌田さんとおなじように。仏教者の南さんならばそれが「ごめんなさい」となる。そんなら、わたしが宗教性を感じることばはなんだろう? と自分に問うてみると、「ふつう」が浮かぶ。




 
 

日記739日記740でもとりあげた「ふつう」。「普通の恋」の曲名に合わせて漢字で「普通」としていたけれど、自分としてはひらがなで「ふつう」と書きたい。これって「ごめんなさい」と「ありがとう」の中間に位置するかな……。そう思いながら本を読み進めると、鎌田さんのこんなお話があった。


(…)先ほどの話を少し補うと、「ごめんなさい」と言うと、その次の展開として、「いいよ」と受け入れる。「いいよ」と言われたら、その次に「ありがとう」が出てきますね。p.275


わたしの思う「ふつう」とはまさに、この「いいよ」にちかい。再三ひっぱって恐縮だけどRAU DEFのリリック。「もしも君が孤独だとしても/俺も同じ気分なら普通でしょ」。これも「いいよ」に通じる。ぜんぜんそんなんふつーじゃん。へーきだよ。みたいな。

南さんの実感する「ごめんなさい」とは、おそらく「ない」の自覚だろう。逆に、鎌田さんの実感する「ありがとう」とは「ある」の自覚なのだと思う。言い換えれば、死の自覚と生の自覚。タイトル通りの対談だった。「死と生」はおふたりの人間的リアリティに根ざした好対照の感覚なのだ。では、この二者をつなぐ「いいよ」とはなにか? わたしの直観では虚構性の自覚ではないか。フィクショナルな領域を通して「ない」と「ある」が通約可能になる。

あなたの孤独がわたしの孤独と「同じ気分」だなんて言えない。あなたはわたしではないから。厳密に捉えるなら、他人の孤独はわからない。しかしそれでは話もできない。RAU DEFは「ふつう」という虚構を噛ませることで、孤独と孤独を「同じ気分」に通約させた。ただし、この接続法が通用するのは虚構の共有がすんなり可能な場合にかぎられる。「虚構の共有」とは、ことばの共有ともいえるだろう。

「ふつう」には実体がない。実体がないけど、ある。なにか共通の世界観。それは言語そのものにも似ている。というか、言語なのだと思った。ただの言語。つまり、わたしの「宗教的な感覚」は言語への深い信頼、あるいは言語への深い疑念からきているっぽい。




こんなツイートを思い出した。奇しくも「恐山」つながり。「言葉なんか」。ここで立ち止まり、さらに田村隆一の「帰途」を連想してしまう。ようするに、自分はそんな人間なのだ。ことばにつまづいてしまう。ほんとうは誰にもなにも言いたくない。ぜんぶちがう気がするから。すべてをただ眺めて、しずかに立ち去ることができたらどんなにいいだろう。なんにも関係なく……。





しかし、そうもいかない。そうはいかんざき。話を狭めるようだけど、生体の制御は出力から始まるらしい。脳はえんえん出力しつづけているのだそう。否応なく。ジェルジ・ブザーキ著『脳のリズム』(みすず書房)という本のAmazonレビューに書かれていた(この本自体は読んでいない。レビュー頼りの情報)。


心理学系の行動科学では(ブザーキは西欧的思考といっているが)、刺激―決定―反応のパラダイムに支配されている(p.ⅳ)。つまり刺激という入力があって、生体内で制御されて反応が決定され、出力されると考えられている。そうではなく、生体における制御は出力から始まるのだ。これは驚きのパラダイムシフトだ。


はじめっから出力なのだとか。この見方はとてもおもしろい。「無意識はつねに始まっている」と前に書いた(日記738)、牽強付会かもしれないけどその感覚とも符合する。感情は「接地」と書いた(日記740)、それにもつうじそう。個人的には驚くほどストンと腑に落ちる。だからといってぜんぶ一般化はできない(あたりまえだ!)。あくまで自分ひとりの世界解釈にかぎる腑落ち。

そういえば、「ガンツフェルト実験」なるものがある。かんたんに書くと感覚を遮断する人体実験で、入力をゼロにすると脳が自然に幻覚を生みだすのだという。もともとはテレパシーの有無を確認するために始められた超心理学の実験。


脳は入力情報ゼロの状態を処理できず、自身の現実世界をつくり上げるのだ。というより、実際に現実の感覚入力が得られているか否かにかかわらず、脳は自身の現実世界をたえずでっち上げている。感覚入力がなくとも、脳の世界構築装置は仕事を止めないということだ。

『脳はすすんでだまされたがる――マジックが解き明かす錯覚の不思議』(角川書店)p.47


どんな環境下であれ、脳は絶え間なく世界をつくりあげようとする。刺激が断たれても出力をつづけ、「現実」をでっちあげる。それが幻覚と呼ばれる。幻覚でなくともそう。つまり、現実認識はすべてアウトプットの産物なのだ。「でっち上げ」の産物ともいえる。あらかじめある出力の上で認識は転がっている。

そのようなめくらめっぽうである出力の流路を意味づけ、この世界をわずかながらもかたどる枠組みとして言語が存在するのではないか。現実というこの目も鼻もないのっぺらぼうの怪物と拮抗するせめてもの道具として。






ごめんなさい

いいよ

ありがとう


真ん中の「いいよ」は自分なりの解釈だと、ことばの、意味の象徴なのだと思う。「ごめんなさい」と「ありがとう」に意味をもたらす。「いいよ」の調停が意味を担保し、ひとつの流路を創出する。いわば出力の調整弁。意味の賜物。

その「いいよ」に、わたしは疑いを向けてしまう。許されたのに。「ほんとうにいいの?」と。言い換えれば「意味とはなにか?」と。こんな問いを立ててしまう。意味の意味を考える。意味が好きすぎるのかもしれない。ことばを信じたくてしかたがないから、疑っている。

「いいよ」は、わからない。孤独と孤独が交わらないように、「いいよ」も厳密にはわからない。それが言語なのだと思う。言語は理解を超えたひとりの他者だ。あなたとわたしをつなぐ、よくわからない第三者として言語は介在している。

「理解するより言語に乗った方がいいんですよね」と南さんは道元の『正法眼蔵』についておっしゃっていた(p.236)。なるほど。とうぜんながら、理解ばかりでは立ち行かない。言語は乗り物でもあった。とりあえず、しらんけど乗ってく。かたちに乗る。リズムに乗る。絶えざる出力にばんばん乗せる。それしかない気もする。寝言のように。呼吸のように。歌うように。

ありがとう。






さいご。
「老い」について、『死と生』よりメモ。


つまり、私にとって「老い」というのは、何かが失われていくことではないんです。何かが人間の中で膨らんでいくことなんですよ。ある力が働いて内側から壊していくものとして感じます。p.213


南さんのこの発言は、もうほんとにそのとおりだと思う。もうほんと。人間はそれぞれのいびつさを日を追うごとにすこしずつ肥大化させている。現実と拮抗する力が弱まり、それを補うように「でっち上げ」が膨れてしまう。感覚が遮断され、幻覚を見るみたいに。現実がゆがむ。それが「老い」だ。わたし自身も日一日と老いゆく者として、このことを厳しく自覚しておきたい。




コメント

anna さんのコメント…
「ガンツフェルト実験」って言葉になんか興味がわいて調べなおしてしまいました。
私が18歳になって独り暮らしをしていた頃の話しなんですが、夜中の寝てるときに気づいたら真っ黒なもやもやの中に目だけがあるオバケが目の前にいて体が動かない状態だったときがあります。暫くしたら消えてなくなっちゃったんですが、その時って、単純に寝てて感覚が完全に遮断されて脳が自然に幻覚を生みだしてしまったってことだったのかもしれませんねー。

2枚目の画像は、ネコ用おもちゃのパタパタですかね?ネコが遊んでくれなかったんかなあ。
nagata_tetsurou さんの投稿…
おばけが出るのはたいてい夜ですね。夜におばけを見やすいのは、たんじゅんに暗いからだと思います。暗闇になにかを投影してしまう。ひとり暮らしの不安感が夜闇に映じたのかもしれません。不安って、スクリーンのようだと思う。そこへ自分の見たいものや見たくないものが投影されてしまう。ときにそれが現実化もする。

見えないものを見ようとしちゃう。たぶん、これが人間の知性なのです。おばけを生み出しちゃうのも知性の、つまり肥大化した脳のはたらきです。諸宗教、諸科学、その他もろもろの歴史も、見えないものを見ようとするところから始まっています。たぶんね。

ネコ用のおもちゃが近所にけっこう落ちてるんです。地域ネコが多いのかな。遊んだあとかもしれません。遊ぶまえか。写真にも、前後の想像が投影されますね。