スキップしてメイン コンテンツに移動

日記745

わたしたちは複数である。そう生まれた瞬間から決定づけられている。物理的に身体はひとつでも、意識は複数としてあるのだと思う。ときどき、パニック発作のような症状に見舞われる。そのときの孤絶的な意識状態から逆算して「人間は複数だ」と実感している。つまり、複数でなければ認知的な狂いが生じてしまうと。

パニック発作はわたしの感覚だと、「個であり過ぎる状態」として訪れる。「うつ病は死にたくなる病で、パニック障害は死にそうになる病」とよく言われる。これは自分の実感にも堪えることばだ。死とはおそらく、複数からの離脱を意味するのであろう。あたりまえといえば、あたりまえなんだけど……。

 

と、ここまでの文章は下書きに1年くらい放置していたもの。気が向いたとき、つづきを書くつもりだった。さいきんはうんざりするほど健康。なんとなく気力が湧いてきたので、気の向くまま書こうと思う。ちゃちゃっと掃除を済ますように。四角い部屋を適当に丸く。 

意識は複数なのに、身体は離ればなれの個別である。たぶんこれが種の存続としてイケてる形態だから、そうなっているんだと思う。生物の大枠は種に奉仕すべく設計されている。人間も例外ではない。言い換えるなら生は複数としてあり、死は個個別別の最小単位にとどめられる。あたりまえだけれど、生き延びる側に都合がよいつくり。種という大きな観点から見渡せば、わたしたちは全員いわば「とかげのしっぽ」だ。

精神疾患について、ひとりよがりな仮説として思うのは、意識のあり方が「複数」から離反しちゃったとき発症するもんが大半なのではないか、ということ。精神科医の斎藤環氏が喧伝している複数人での対話療法、オープンダイアローグは典型的に「意識の正常な複数化」を目指しておこなわれる治療なのだろう。

芸能人にパニック障害の罹患者が多い(かに思われる)のも、「個」を強く意識せざるを得ない職業だからではないだろうか。むろん、ほんとうに多いのかはわからない。職業別の統計とか、あるのかな。あくまで、ひとりよがりな仮説です。このブログの記述はほとんどひとりよがりな仮説。生きているということに関する、いち人間の感想文に過ぎない。

人は「個」であることに耐えられない、と日記744に書いた。「カーブの向こう側や、壁を隔てた向こう側も世界が地続きであると自然に解釈する」とも。これを書きながらじつは、パニック発作の症状を思い出していた。わたし個人の感覚では、発作が起こると「地続きである」と思えなくなる。つまり、想像的な領域が断たれてしまう。孤絶、ということばがまさにしっくりくる感じ。

土に埋められたコンテナの中で何日間も瞑想をつづける、アンダーグラウンド・サマディというオウム真理教の修行がある。ちょうどそんな、土中のコンテナに閉じ込められてそれ以上の世界が存在しなくなる感覚といえばわかりやすいだろうか。狂気に近い信仰心がなければ、とてもじゃないけど耐えられないような。要するに生き埋め。

わたしの考えでは、壁を隔てた向こう側は「みんな」が担保してくれている。誰もが「みんな」を信じるともなく、ほどほどに信じている。ほどほどに「みんな」として、ほどほどに「個」として生きているのだ。「みんな」の渦へ狂信的に埋没した人間ならおそらく、土中のコンテナに監禁されても意識状態を保てる。しかし多くの人にとって、そのような環境では「個」が際立ち過ぎるため、おかしくなってしまう(これによって狂信者をつくりだすのかも)。

人間の意識はつねに戻れる居場所を必要としているのだと思う。「みんな」を必要としている。閉じ込められる恐怖とはすなわち、戻れる居場所から切断される恐怖にほかならない。それは、「みんな」から切断される恐怖ともいえよう。

ほどほどにさえ「みんな」を信じられない、複数であることに疑義を呈してしまう、そこにわたしの病根があった。いや、いまも潜在しているのかもしれない。何年か前は、「神さまを信じる強さを僕に」という小沢健二の歌詞がとてもリアルな響きをともなっていた。生きることをあきらめてしまわぬように。

乱暴なことをいえば、「個」としての意識は生存に適さないノイズなのだと思う。忘れてしまえるなら忘れたほうがよい。誰もが生きるうえで、忘れる方法を模索しているではないか。学校を出て就職して結婚してこどもをつくってうんぬんかんぬん……。わたしもできるなら、うまく忘れていたかった。忘れないといけなかった。

現在はいちおう、うんざりするほど健康に過ごせている。ちゃんと複数をやれているのだと思う。忘却中。言い換えれば、なにかを信じてこれたかなあと、そんな気がする。あくまで、いまのところ。ちゃんと雲のない星空が窓の向こうにつづいてる。夜空ノムコウ。流行歌のなかには透明な「みんな」が息づいている。

 ぼくは虚構を「嘘」とは捉えてなくて、むしろ「信じていること」と捉えています。逆にぼくにとっての現実は、あえて信じる必要のないものです。夢から覚めるみたいに、つねったら痛いとか。死んだら死んだ、みたいな。p.356

 

東浩紀氏の対談集『新対話篇』(genron)を数日前に読み終えた。このなかにある、飴屋法水氏の発言がおもしろかった。なんとなく自分と似た感じがして……。わたしは「嘘」と「信じていること」はセットなのだと思っている。ふたつでひとつ、みたいな。表裏一体。微妙にちがう気もするけど、だいたいおなじ話かな。

 

(…)自分でつくったわけでもない新幹線を信じてるのはなぜかというと、これは人間という集団に対する信用としか言いようがない。ぼくは人間がつくった新幹線や飛行機に乗るし、橋やビルも信じるけれど、同じく人間がつくった結婚制度とか、家父長制にもとづく戸籍や家族というものには、うまく乗ることができなかったんです。p.356


これも飴屋氏の発言。「集団に対する信用」を自分なりに言い換えると「集団的な偽装を信じている」となる。仕事とは、いうなれば「日常を保つための偽装」だろう。日々それこそ「みんな」によってつくられ、信じられていること。わたしもまた、その偽装工作の一翼を担って(信じて)、この社会を生きている。対価として交換されるオカネがいちばんわかりやすい信用(偽装)の賜物かもしれない。

就活中に「キッザニア(こども向け職業体験型テーマパーク)みたいなノリで働いている」と話してくれた人がいて、すばらしいなと思った。わたしからすれば、おとなの仕事もごっこ遊びの延長に見えてしまう。やはり「みんな」を心から信用しきれていない。やたら真剣な、命がけのごっこ遊び。そう思うと滑稽でたのしい。似たような感覚をもっている人が少数ながらいるのだと思う。自分にとってはうれしいお話だった。  

「ニヒリズム具合がちょうどいい人同士で仲良くなる」と哲学者の千葉雅也氏がtwitterに書いていたのを、なんとなく思い出す。わたしは「ロマンティックな人」となぜか思われがちだけれど、根っこの部分はものすごく虚無的。いや、ニヒリズムとロマンティシズムは親類みたいなものなのかもしれない。

空虚の埋め草がロマンになるのか。虚構に対する態度のちがいか。どうでもいいけれどたとえば、地球は美しい流刑地だと思う。こういう詩的なフィクションがけっこう好き。虚無と空想の情緒がバランスよく同居している。わたしにとっては、ちょうどいい認識。

飴屋氏の発言に戻ろう。乗り物や橋やビルは信じるけれど、制度上の結婚や戸籍や家族には乗ることができなかったそう。これも自分にちかい。お仕着せの欲望に乗れない感じかな。べつのインタビューで氏はこんな話をされていた。

 

(…)感覚的に言えば“自分”が本当に無いという感じなんです。稽古場でも、ずっと他人のことを考えているだけ。そんなに大したことを考えているわけではないけど、いつも他人のことを考えている。まあ、人が好きなんだと思いますが、人に限らず全てが好きなんですけど。その人のこととかを考えているだけで、「自分が○○したい」というのは本当に何にもないんです。

アーティスト・インタビュー:飴屋法水 | Performing Arts Network Japan


このへんも、なんだか似ているような。「好き」はとても複雑なことばだと思うけど、個人的には受動でも能動でもない妙な感情で「いる」とか「ある」とかそういうものにちかい。だから、わたしもすべてが好きなんだと思う。あるから。そして自分のことも大部分、他人みたいに考えている。

そうか。結婚だのなんだのは所与のものとしてあるわけではない。つくらないといけない。ひとりであることから離れて。それはきっと「おとなになる(=複数である)」ことでもある。似ていると思うのはつまり、こどもっぽさだ。

図式的に書けば、「みんな」を参照してつくられるおとなの世界と、「個」を参照してつくられるこどもっぽい世界のどちらに軸足を置いているか。どちらが良い悪いという話ではむろんない。「みんな」から「個」を見る視野と、「個」から「みんな」を見る視野があるのね。 

わたしの考え方は基本的に「個」を参照する。他者のことを思うときもその人の社会的な位置づけなんて話半分で、その人の孤独について考えている。誰の内面にも存在している、「こどもっぽさ」を。置き去りにされた、あなたのなかのこどものことを考えたいと。


 

……いや、うん。

似た人だなーと思うポイントはほかにもある。しかし画面や紙面越しに「なんか似てる」と感じるのはほぼ間違いなくカンチガイなので気をつけたほうがよい。要はだんだんやる気を失い始めたのでここでやめる。


 

本日の格言コーナー。

一行でまとめると、これだと思った。





コメント

anna さんのコメント…
読んでて、粘菌を思い出しました。たしか粘菌って、生存環境が厳しくなると子孫を残すために集合体を作って、集合体として生き残ろうと行動するんじゃなかったかと思います。
粘菌の場合、なんか化学物質を出し合って集合して、出せない協調性のない個体ははじき出されるんじゃなかったかなあ。人の場合は、化学物質の替わりに個々の意識がその役目をしているように思いますが、社会のルールや慣習とかの範囲で個々の自由があるんでしょうけど、それに外れる意思をもった個は弾かれてしまうってことなんでしょうか。思いつきですが。

それにつけても、生き埋めにされる修行とか考えるだけでもいやですね。
nagata_tetsurou さんの投稿…
粘菌の比喩はとても的確だと思います。というか、わたしも考えながらズバリ粘菌がよぎっていました。書いていないけれど。だんだん思考が伝染しているのでしょうか。ことばに物性があるとすればたぶんアメーバ状で、それこそ粘菌みたいに融合しあうのかも……。笑

ただ、その延長でいえば意思は関係ないのです。意思の及ばない、内臓感覚みたいな根幹から「わたしたちは複数としてある」と思っています。「個」は、たとえるなら心臓です。心臓を思いのままに動かせたらヤバイですね。止めてはいけない。死ぬから。おなじように「個」にも強く意識が及んではいけないのだと思う。病むから。こじらせると死にます。心臓とおなじくらい根幹にある自然的な原理として、生まれた瞬間から「複数」が脳味噌に埋め込まれているのだと感じます。

「人間の自由はきっと利他性の下にある」と、いつかのコメント欄に書きました。ここにもつながってくるかな。これもまた表層の道徳や倫理ではなく、人間はそういう生き物なんじゃないかと原理的な深層において考えています。善行はもちろん、悪行にもその内側には利他性がある。

生き埋め修行は想像するだけでもいやですが、しかしこういうことをすすんでやっちゃうのも人間という生き物の非常に興味深いところです。「信じる」ってすごい、というか。これも利他性の発露かもしれない。そこで、とんでもなくマゾヒスティックな命がけの自由を得てるんですね……。わたしの考える利他性とは、「信じる」の言い換えでした。いま気づいた。

人間の自由は信じるということの下にあるんです。たぶんね!
nagata_tetsurou さんの投稿…
補足です。

「意思は関係ない」とすっぱり書いてしまいましたが、もっと微妙な言い方がある!と思い直しました。「意思」に焦点をあわせて、もうすこし整理させてください。微妙なんで恐縮ですが……。笑

annaさんのコメントをわたしのことばで換言すると「信じられなくなった個は弾かれてしまう」となります。で、個々の意思はおそらく信のゆらぎからはじまる。疑念によって立ち上がるもの。

「外れる意思」をわたしなりの正確さで言い換えると、「外れたとき意思(思考)が生まれてしまう」。能動的に「外れる」というより、受動的に「そうなってしまう」感じです。なにかのきっかけで疑念を抱いてしまう。そして、そこで生まれた「意思」は死に至る病のもとでもある。思考の根底には大なり小なり病的な強迫観念がともなっています。

「外れる(病)」と「弾かれる(死)」のあいだに意思のグラデーションが宿る。意思はすなわち、「信じる/信じない」のあいだで生起している。これは「生/死」の二項ともつうじています。どちらも、ひとりの意思だけではない、複数の「わたしたち」から生じる二項です。認識の外枠をかたちづくる二項。個としての意思はこの大きな枠組みのなかにあり、右往左往しつづけている。

annaさんのことばに沿って自分の考えを継ぎ足してみると、こんな感じでした。めちゃんこつながるナイスコメントでしたが雑に切り込んでしまって、よくなかったかなーと。ことばはアメーバ状なので、どこまでもつながります。

さらにつなげるなら、この補足もまた「外したな」という(一方的な)気持ちから意思が立ち上がって出来た。ここでふたたび弾かれることもあれば、うまく合流できることもあって、日々そんな連続なんですね。