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日記746

目を閉じると慎重になる。全身を使い、見えないぶん必死で見ようとして、スムーズに動けない。「見る」という行為にはかならず、運動の抑制がともなう。目で見ることもまた同様に。ゆであずきの落とし物に気がついたのは、ここで立ち止まったから。逆によどみなく運動するためには、あまり見ようとしちゃいけない。

またあたりまえのことを書いているような……。

いまどきたいていの人はヒマな時間、スマホに目をあずけている。目の「あずけ先」。こう書いてみて、こどもをあずけておくようなイメージが浮かんだ。目はこどもっぽく、落ち着きがない。スマホはたとえるなら、目の託児施設なんだと思う。テレビやパソコンや書物もそう。目を飼いならしておくための平面。

電車でわたしはさいきん、外の風景に目を凝らしている。風景は情報量が多い。看板やマンション名などの文字を読んだり、屋根のかたちを見比べたり、植物の変化を日毎に観察したり。それらが猛スピードで目まぐるしく遷移する。身体が止まっているぶん、目を文字通り目いっぱい運動させて見まくる。これが意外と疲れる。目がまわってしまう。文字通り。

本やスマホは車窓にくらべるとわかりやすい。これまたあたりまえか。でも自分としてはなかなかの発見。車窓に集中するとカオティックでやばい。身近なところに混沌があった。いままで託児施設に閉じ込めていたこどもを、お外で遊ばせるような感覚。

本やスマホがわかりやすいのは直線的に整序された世界だから。目はその順序にしたがうだけでいい。車窓は逆に曲線的な眼球運動が求められる。どこに目を止めるか、わかりやすい導線はなく自由度が高い。それだけに疲れる。主観的な時間経過も長く感じる、ような。収束と拡散のちがい、ともいえる。

立ち止まる時間はすなわち、見ることが前景化する時間。「見る」と身体運動の対称性をこのごろ改めておもしろがっている。視線は身体を奪いたがる。そして身体は視線を奪いたがる。こんな視覚と身体の綱引きにわたしたちの意識は日々ゆられている。

昨今は油断するとすぐ、身体が奪われてしまう。わたしはただでさえ視覚優位な人間で、だからこそ運動への意識づけが欠かせない。思い切って目を置き去りにしないと、動けないのだ。W・H・オーデンの詩、まんまの話。ようやく理解しつつある。見る前に飛べ。

別言すれば、静と動の綱引き。写真を撮りながら歩く時間はちょうど、この張力が拮抗する。ピンと釣り合う。どちらも奪われない。見て、かつ飛べる。ある時間、ある空間のなかに自己を然と置ける。そんな充足感がある。

犯罪抑止の看板にはよく「見てるぞ」と書かれている。「見る」によって止まるのは自分だけではないらしい。見られる他人も止まる、とされている。

「いすぎてはいけないし、いなさすぎてもいけない」と日記744に書いた。あとで思ったけれど、これは「見すぎてはいけないし、見なさすぎてもいけない」とぴったり言い換えられる。「止まりすぎてはいけないし、動きすぎてもいけない」とも。人間はみな適度に見たり見なかったり、適度に止まったり動いたりする。

恐ろしいほどあたりまえのことを書いているぞ……。

わたしはこれらのバランスに偏りがあって、どうも見すぎてしまう。さまざまなものを止めにかかろうとする。なにかいつも、居場所を求めている。居場所のなさを感じているがゆえの欲望なのだと思う。めっちゃ疑う人は同時に、めっちゃ信じたい人でもある。

ことばはその人が止まっている位置を明かすものかもしれない。それぞれの精神的な現在地を明かすもの。「いる/いない」などと、そんなことばっか書き残している人間はどうしようもなく手前の手前の手前の手前で止まっている。こんなの、生まれたてホヤホヤのヤツが抱く疑問だよ。つまり「いないいないばあ」について眉間に皺を寄せながら真剣に考えつづけている。ブログは手前勝手でよい。

人は自分にも他人にも「いてほしい」と同時に「いなくなってほしい」とも思っている。これは足の小指をぶつけて感じたこと。痛みとは、「いすぎる」状態ではないか。痛みを感じながら、「小指がすんげーいる」と思った。痛みが引けば小指は適度にいなくなる。

お年寄りなんかは、誰もがなんらかの具体的な痛みを抱えており、おそらく心理的には「自分がいすぎる」ような状態に押し込められちゃうのだと思う。ひとつの記憶が強烈に「いすぎる」のはつらい。前にも書いたけれど、適度に姿を消さなければ(似たような話ばかり!)。

いま、山田風太郎がエッセイに書いていたことをなんとなく思い出した。


 小学三年の八割はサンタクロースの存在を信じ、五年の八割は信じていないそうだ。四年生はその境目の悲しい年齢だという。
 思うに人生は、夢や幻想が覚めてゆく過程だといっていい。
 親は子に対して、子は親に対して、夫は妻に対して、妻は夫に対して。
 税金を払うときは国家に対して、死床にあるときは医者に対して。
 そして、自分は自分に対して。
 それでも大半の人間はふしぎに絶望しない。


覚めてゆく。これはたぶん、「いなくなる過程」ともいえる。ひとりになる過程。あるいは、「自由」に気がついてしまう過程でもある。よくわからんルールに気がつく。「なんでこんなことやってるんだろう」と。そうして逸脱してゆく過程。問いを深める過程でもあるのかもしれない。

哲学みたいなもんはきっと、生きてナンボってとこがある。時代や自分の年齢ごとに次々と、さまざまな問いが噴出するから。生きているかぎり問題は覚めやらぬ、はず。わたしが生きている理由もやはり、問いに拘泥しているせいにちがいない。もうすこし考えたい。答えは出ないけれど……。そういえば、ひとつの「哲学的事業」として自死を選んだ人もいた。

 

 つまらないことで気分が落ち込み、以前にもあった同様の失敗を思い出し、つい「あー、死んでしまいたい」とつぶやいている自分に気がついて、苦笑いをしてしまった。
 それで気がついたのであるが、時おり落ち込んだ時につぶやく「ああー、死にたい」などという表現は落ち込んだ気分を一瞬ほっとさせて救うための手段であった、ということである。
 もう三ヶ月先には死ぬことが確定している人間でも、こんな姑息な手段で自分の気持ちを救っているということは、「死ぬことを前提に生きてこそ、本当の人生を歩むことができる」などという言い草は怪しいものだと感じてしまった。

須原一秀『自死という生き方』(双葉社)p.251


わたしはこの本の、あっけらかんとした記述が好き。そう、「死にてえなー」なんて思うとすこしほっとする。意外と多くの人が「死にたい」ということばを喉の奥、胸の際であたためながら生きているのだと思う。禅僧の南直哉さんは、出家するとき「これで自殺のカードが切れなくなる」と思ったそうな。「死ねない」ってのもしんどそうな話。どちらに振れてもあれだな。人生は生殺しだ!

住宅街をほっつき歩いていたら、見知らぬおじいさんがいきなり敬礼をはじめた。わたしに向かってやっているらしい。とりあえず会釈をする。すれちがいざまに「がんばれよ」と声をかけていただいた。数秒間の、なんだかわからない経験だった。夢みたいにシュール。誰にも言えないので、ここに書いておく。

生きていると、たまにへんなことが起こる。知らないおじいさんに道端でいきなり敬礼されるなんて、思いもよらない。それに、なにをがんばればよいのやら。しかしなんというか、こんなことがあるからもうちょっと生きていようとも思える。この世界ではつねになにかが起きているし、とうぜん自分の身にもなにかが起こる。良くも悪くも。なにかが起こる。

アホみたいだけど、なにかが起こるんです。これをお読みになっているあなたの身にも、なにかが起こります。なにかが!わたしは宝くじを買うような気分で生きているのだと思う。基本的に当たらないけれど、たまに当たるのね。なにかが当たる。敬礼おじいさんは貴重な当たり。

人間は「何回に一回か良いことがあり、かつ、それが予測できない状態だとそれを何度もやる傾向がある」らしい。これは人生そのものでもあるような。ちびちびbetするがごとく、毎朝起きている。がんばります、適当に。



コメント

anna さんのコメント…
サンタクロースの話しのところで、何の本で読んだんか忘れましたけど、「絶望が人を殺す」って言葉を思い出しました。ほんとに楽しいことをしているときは人間って死なないそーで、どんなに暑いところでも熱中症とかにならないらしいですよ。
なお、わたしはサンタさんは初めから信じてなかったように思います。なんかクリスマスってプレゼント貰える日って認識でサンタさんと結び付けてませんでした、たぶん。
nagata_tetsurou さんの投稿…
そうですね、そうなんです。

「絶望」をもうすこしマヌケに言い換えると「あれ?なにやってんだろ?」みたいな感覚なんです、たぶん。たとえば野球選手が急に、あれ?おれはいま棒をふりまわして球に当てようと必死になっている……おかしいな、これはなんなんだ?と覚めた観念にとりつかれはじめたら今季は絶望です。というか、選手生命が危うい。

わたしは写真を撮ったりブログを書いたりしますが、たまに「なにやってんだろう」と思います。ひとりきりなら、ぜんぜんしなくてもいい。でも、やってるうちにそういう時間の円環ができてしまった。野球選手が「野球」なんつう奇怪な運動会を信じられるのもやはり、みんなが「野球」と呼ぶシーズンの円をつくって、信じているからですね。

annaさんも「なんでいつもコメントしてんだろ」と感じたことが、もしかするとあったかもしれません。わからないけど、理由はないんです。なぜ人が棒をふりまわして球に当てるとあんなに盛り上がるのか、これにも決定的な理由はありません。詰めていけば結局「そうだからそう」とか「楽しいから楽しい」とか言うしかない。

絶望とはつまり、同語反復の外に出ちゃうことを指すのかなー。円環的な論理の外側に出てしまう。「楽しいこと」が終わったときはじめて、熱中症に気がついて倒れるようなね。annaさんは、わたしのつくる円の内側になんでかしらんけど(いまのところ)入っちゃってるんです。笑

サンタさんね。わたしも始めは信じていませんでした。でも、いまは信じています。サンタさんはいます。クリスマスがちかづくと、街にあらわれるじゃないですか。たくさん。みんなほんとは、信じてるんじゃないかな。そもそも「クリスマス」みたいなよくわかんないものも「ある」ってことになってますよね。そうした1年ごとの円環に、生まれてこのかた巻き込まれちゃってる。ならもう、全力で乗ってくのみですよ!笑