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日記754

郡司ペギオ幸夫の『やってくる』(医学書院)にある、「他でもあり得たことへの気づき(p.285)」というくだりに感動した。日記749で、國分功一郎と熊谷晋一郎の講義録『〈責任〉の生成』(新曜社)を引きながら書いた「意味がわかる」って話にもつながる。國分さんのお話をもういちど引こう。 


 そこで引責の話なんですが、僕の書いた『中動態の世界』がオープン・ダイアローグを考えるうえでたいへん参考になると考えてくださった方々がいらして、関連のシンポジウムに呼んでいただき講演した際、最後の質疑応答で、「私は犯罪の加害者なんです」と前置きされてから感想を述べてくださった中年の男性がいらしたんです。僕はその講演で、「自由意志というのは存在しません」という話をしたんですが、その男性はその話を聞いていて、涙してしまったと言うのです。そしてこんなことをおっしゃいました。「自分はずっと罪の意識を持たなければならないと思ってきたけれども、それがどうしてもうまくできなかった。ところが講演を聞いていて、自分ははじめて罪の意識を感じた。自分が悪いことをしたと感じた」とおっしゃったんです。僕はびっくりした。pp.45-46


犯罪加害者の男性は、講演を聞いてはじめて「意味がわかった」のではないか。と、前に書いた。では、ここでの「意味がわかる」とはどういうことか。郡司さんのことばを借りればそれは「他でもあり得たことへの気づき」となる。

後悔や罪の意識はまさに「他でもあり得た」と気がついたとき、やってくる。他でもあり得たのに、そうでしかあり得なかった自己のズレをかえりみて人は悔いる。なぜあんなことをしてしまったのか?あのとき、もっとべつの行動があり得たのではないか?と。

「意志」という概念はおそらく、「他でもあり得た」その可能性を潰してしまう。ズレを隠蔽してしまうのだ。それ以外あり得なかった。なぜなら、それが自分の意志だったから。こうなってしまっては罪の意識が入る余地はない。熊谷さんは『〈責任〉の生成』で、さいごにこんな怒りを表明している。

 

二〇一六年に起きた相模原殺傷事件の犯人の裁判所での言動が、少なくとも私にとって許しがたかった理由の一つは、彼が自分の行為について、自分の意志で行ったということを認めなかったからではない。いや、むしろ彼が過度に、自分の意志にのみ帰属させたことが許しがたかったのだ。p.427

 

一般に人は、「自分が正しい」と思いたがる。大それたことをすればするほど、そう思いたい気持ちは強まるのかもしれない。「他でもあり得た」なんて、そんなわけがない。これしかあり得なかった。そうじゃなかったら、始めから終わりまで、なにもかも意味がなくなってしまう。と、カイジの鉄骨渡りみたいにまっすぐな「筋」の上へしがみつこうとする。

しかし意味ってやつは思いのほか執拗で、どんなに「筋」を曲げてもなくなりはしない。というかもともと、あなたはそんなにあなたではないし、わたしはそんなにわたしではない。馬鹿正直に鉄骨をひとりで渡りつづける必要なんてないんだ。郡司さんの言い方だと「わたしでない、というよりはむしろ、わたしである」。どちらかといえば、わたしである。人間はそういうあり方をしている。

だからこそ、ことばがつたわるのだと思う。他者の言語がやってくる。意味はつねに、他でもあり得る。わたしはつねに、あなたでもあり得る。そして同時に、あなたではあり得ない固有の位置を占めてもいる。「言語には、成り立とうとしているけれども、同時に壊れようとしている力が含まれていて、だからこそ生きている」と多和田葉子が語っていたことにも通じる。そう、『やってくる』も『〈責任〉の生成』も「生きている」を見据えようとする試行錯誤の書だった。

たぶん、生きているということは全体的に気持ちが悪い。『やってくる』で郡司さんが抉り出した論理は一見すると飛躍や矛盾に満ちており、ぜんぜんすっきりしない。なんとも気持ちが悪いものだ。しかしそれこそが「生きている」を包み隠さずそのままのかたちで掴みだす論理なのだと、わたしは理解した。 

『〈責任〉の生成』で一定の留保のもと批判される「意志」は逆に、気持ちがいい。こいつがワシの意志や!くらえ!ちゅどーん!みたいな。必殺技にも似ている。他人に「意志」を着せることもまた同様に、気持ちがいい。お前のせいだ!くらえ!ちゅどーん!と。天誅のように。そうすれば、わかりやすくすっきりする。「生きている」の気持ち悪さを覆い隠す、筋の通った論理が「意志」なのだろう。きわめて感覚的な物言いだけど、こういう「感じ」をたいせつにしたい。

生きものは例外なくみんな、めっちゃキモい。生はトラウマティックであらざるを得ない。単に存在するだけでは生きていけないのだから。葛藤に身もだえる。傷つけあう。年をとればとるほど、後悔や自責の念がつのる。生きていれば、何かが起こる。すっきり説明のつかない異物がやってくる。かならず、やってくる。

いかなる異物がやってきても、けっして排除しない郡司さんの思考能力はすばらしく祝祭的だと思う。『やってくる』は矛盾や飛躍の祝祭に満ちた本だ。ちょっと変かもしれないけれど、わたしはほんとうに読みながらうれしくなった。キモうれしい、みたいな。なんかもってかれた。そして、やってきた。

郡司さんは「やってくる人」であるだけではない。やってきた何かを「もっていく人」でもある。余さずもっていく。どんどんもっていく。なにも置いていかない。「生きている」という不揃いで無作為な祝祭が、日常にあふれていることを教えてくれる。やってきたなら、もっていこう。恐れることなく。

思えば、「他でもあり得た」に類することばが前々からずっと気になっていた。これはきっと、わたし自身のテーマでもある。自分の読書メモに目をとおすと、似たような意味の抜き書きがけっこう見つかる。

 

何事であれ、そこにはつねに、それ以上のことがある。どんな出来事でも、他にも出来事がある。
(スーザン・ソンタグ『この時代に想うテロへの眼差し』)

 

むしろ、不完全な言葉が不完全な人間としてのわたしを絶えず喚起するということにこそ、わたしは言葉の力をみとめたい。
(長田弘『一人称で語る権利』)

 

 「みたされないなあ」という感じ。いまはわからないが、いつか少しわかるだろうかという、読み終えたあとに残る、漠とした期待と希望。それは文学だけのことではない。歴史そのものが、いつもどこでもかかえているものだ。
(荒川洋治『昭和の読書』)

 

 都会では、デパートではお金がなきゃいけない。学校では、頭が良くなきゃいけない。
 セレブな場所ではセンスがよくなきゃ、いけない。自分で自分を締め付けて生きている。
 でも、アフリカに来て、動物を見る。毎日見る。ホテルに泊まっていても、サファリーカーに乗ってはいても、草原と風が、皮膚から身体に染みていく。
 私は空。私は風。私は大地。私は生き物。同じ生き物。許された、生き物。
(萩尾望都『一瞬と永遠と』)

 

私は少々草です
多分少々は魚かもしれず
名前は分かりませんが
鈍く輝く鉱石でもあります
そしてもちろん私はほとんどあなたです
(谷川俊太郎「私は私」)

探せばいくらでも見つかりそう。これらはすべて「他でもあり得た」をさまざまな角度から語っている。そうしたものに、ときめいてしまう性質なのか……。というより「なんかちがうんじゃないかな」と、いつも感じている。まいにちがアイデンティティ・クライシスみたいな。途方もなく、とめどもない気分で生きているせいだろう。ゆるゆるだぜ!

欠如、と言い換えることもできる。欠落感。埴谷雄高が「自同律の不快」と表現したそれにもちかいのかもしれない。小説は苦手だけれど、結局は文学ちっくなヤツなのか。しかもちょっと古くさいタイプの。なんかそんな気がしてきた。でも、ぜんぜんちがうかも。わからない。他でもあり得る。心ここにアラブ。

 


コメント

anna さんのコメント…
何度か読み返しましたが、私の頭では「他でもあり得た」の意味がいまひとつ掴めなかったです。でも、そうそうそーだよねって共感できる文章があちこちにありました。「単に存在するだけでは生きていけない」(お腹がすいたときに特に感じます。)とか、「お前のせいだ!くらえ!ちゅどーん!」(昨日、電車で座ってただけの私に絡んできた知らないおじさんに言いたい。)とか。
nagata_tetsurou さんの投稿…
わたしもそんなふうに文章を読みます。つかめない部分は置いといて、拾えるところからはじめる。読書にかぎらず、コミュニケーションってそんな感じですね。話せそうなところから話しはじめる。

『やってくる』は意味よりも「感じ」にふれるように読みました。しょうじき、理解はふわっとしています。でもなんか、感動したんですよね……。

たとえば、たいせつな人を亡くした直後には、たいへん深い喪失感がおとずれます。そうでしかあり得ない現実に打ちのめされて、ことばをうしなってしまう。「他でもあり得た」は余白だと思うんです。ことばをなくしてしまわないための。「まだあった」と、そんな余白がやってくることが喪失からの回復につながる。『やってくる』は、言語の余白に関する本だと思う。

宇多田ヒカルの「光」を思い出します。「もっと話そうよ/目前の明日のことも」。あるいは山崎佳代子さんの『ベオグラード日誌』にあった、こんなことばも。「一番深い闇の中から発する幽かな光、それが詩」。そういう感じ。たいせつなのは「感じ」です。笑

わたしはお風呂に入るのがめんどくさいとき「単に存在するだけでは生きていけない」と感じます。電車で絡んできたおじさんには、割り箸が変なふうに割れる呪いをかけておきました。ヤツはもう二度ときれいに割り箸を割ることができません。ご安心ください。