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日記749

『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』(新曜社)を読んだ。國分功一郎さんと熊谷晋一郎さんによる連続講義の書き起こし。うすうす感づいていたけれど、わたしには自閉的な傾向がすこしあるのだよなーと、それを根本から問うこの本にふれてようやく理解できた気がする。と同時に、根っこをぶっ刺してくるような深度のことばでないとなにひとつ腑に落ちない自分の頑固さにも改めて気がつく……。わからず屋。

何年か前に、IQ検査をしてもらったことがある。IQにはざっくりふたつ、言語性IQと動作性IQってのがあって、わたしは言語性がミョーに高い。ほんで相対的に動作性が低い。このふたつの差が大きくひらくと自閉スペクトラム症(ASD)がうたがわれる。

検査結果について医師から聞いたお話をむちゃんこ乱暴にまとめると、わたしの場合は「どっちでもいい」らしい。IQだけを見るなら、かなり微妙な値。どちらとも言い切れない。ポジティブに言い換えるなら、ハイブリッド型人材なのだ。二刀流。野球でいえば大谷翔平、プロレスでいえば船木誠勝。ハイブリッド・ボディ。そういうことにしている。

とはいえ、半端に高いIQがいつでもいつでも邪魔になっている感は否めない。アウトプットが目に見えて遅いし、疲れやすい。それに関して、『〈責任〉の生成』のなかで「まとめ上げ」と「絞り込み」という観点から説明がなされていた。

これは、熊谷さんと綾屋紗月さんの共著『発達障害当事者研究――ゆっくりていねいにつながりたい』(医学書院、2008)における分析をまとめる文脈で出てきた用語。綾屋さんはASDの当事者として、ご自身を研究されている方。


(熊谷) 私たちの意識のなかには、つねに大量に、かつさまざまな種類の感覚入力があるわけですが、私たちの多くはほとんど無意識のうちに、それらを一つのカテゴリーとしてまとめ上げたり、またそれらのなかから、今、私が注目するべきなのはこれであり、これではないのだ、と絞り込んでいます。このまとめ上げと絞り込みの困難が、綾屋さんのインペアメントとしてもっとも根本的、基底的なものとしてあるのではないか、というのがこの本において私たちが仮説として提示したものなのです。 
『〈責任〉の生成』p.59


ひとことでいえば、知覚の抽象化・一般化・汎用化に時間がかかるのだと思う。ここでわたしが想起したのは、だいぶ前に図書館で借りて読んだウォルター・J.オングの『声の文化と文字の文化』(藤原書店)だった。これもあくまで仮説ではあるが、声の文化と文字の文化の相克がひとりの認識世界のうちに生じているのではないか?という直観を得たのだ。単なる妄想かもしれないけど。思い切って仮説に仮説を架していくスタイル。

人類が文字を獲得したのちの認識世界と、それ以前の文字のない認識世界とを比較検討した本。いま手元にないためメモをもとにした雑なまとめになるけれど、文字の文化はカテゴリー化・抽象化を基礎として具体からは遊離しがち。声の文化は状況依存的・具体的で抽象的なカテゴリー分けの発想は弱い。

そこで思いつき。声の文化・文字の文化、ふたつの異なる思考様式と、言語性IQ・動作性IQを絡めて考えるとおもしろいかもしれない。「知能」を捉えなおす補助線として。アイデアだけ置いておこう。どう対応するのかは、IQ検査の内容を詳しく検討しないとわからない。

ちなみにわたしは検査で、数唱と語音整列をほぼパーフェクトこなせた記憶がある。どちらも聞いたもんを復唱するテスト。これだけは鮮明におぼえている(うれしかったから!)。小学生のときも、似たような遊びをクラスでやって優勝した思い出がある。先生の言った数字をそっくり復唱する遊び。これも鮮明におぼえている(うれしかったから!)。思えば最初で最後の優勝経験だ。あれ以来、優勝していない。復唱は声の文化っぽい。

それはともかく、要は直観的にこう思ったのだ。

「ASD」とされる知性の持ち主は、はるか昔に巻き起こった互い違いの文化間の統合にいまもなお戸惑いつづけているのではないか。異なる文化間の軋轢がひとりの身体内に絶えず生じてしまう。文字と声、べつべつの認識世界をやんわり調停し、その都度その都度、ゆっくりていねいな翻訳を迫られる。これに疲労困憊してしまうのではなかろうか。

むろん「ASD」とひとくちに言っても、ひとりひとりちがう。わたしの場合、身体的な感覚入力はどちらかといえば一回性にもとづき仔細に状況依存的。しかしそれを表現する言語の出力は必要以上に文字の文化に依拠している。つまり、入力と出力にギャップがある。写真の視野はわかりやすいと思う。細かいものがやたら目につくから、それをおもしろがって撮る。写真は言語化以前の認知的原典みたいなもの。

綾屋さんの場合おそらく、わたしよりさらに状況依存性の高い稠密な身体感覚で生きておられる。そのきわめて具体的な密度に耐えうることばが、文字に基礎づけられた「まとめ上げ」と「絞り込み」の思考様式には存在しなかった。そういう面もあるのでは。

と、ダイナミックに飛躍してみた。的外れかもしれない。わからない、あくまで思いつき。この粗描が広く「知能」なるものを解釈するうえでの補助線に、もしなるのであればうれしい。でかい枠組みで考えたい。

ところで、言語性IQが高く動作性IQが低いってちょっと民主主義っぽい。民主主義における意思決定プロセスは「話し合い」がその眼目とされ、時間がかかるとよく言われる。これはそのまんま「言語性IQが高く、動作性IQが低い体制」ともいえるんじゃないか。

と、以前から思っていたところに『〈責任〉の生成』のなかでも、「意志が立ち上がりにくい」という綾屋さんについて、熊谷さんがこんな解説を付していた。


  例えば、胃袋が、今から何かすぐに食べろとアフォーダンスを与えてくる。そして、目の前にあるたくさんの食べ物は、私を食べろとそれぞれがアフォーダンスを与えてくる。つまり、身体の内側からも外側からも大量のアフォーダンスが彼女のなかに流入してくるけれども、それをいわば民主的に合意形成して、一つの自分の意志としてまとめるまでにすごく時間がかかる、とおっしゃる。p.145

 

環境から与えられたさまざまな情報の調停(意志的なまとめ上げ)に時間がかかる。わたしもたぶん、空腹を立ち上げにくいほう。「食べるのめんどくさい」と思っちゃうふしがある。理解されたためしがないので、人には言わない。「調停めんどくさい」とか「合意形成めんどくさい」とも言い換え可能かもしれない。民主的な合意形成は、とにかくめんどくさい。労力を減らすよう、わたしのなかには機械的に割り切る独裁者も存在する。多様性を踏みにじって、なんでもいいから食事を摂る。

この独裁者を、綾屋さんのことばでは「します性」という。「したい性」と対比される造語で、身体がなんといおうと状況がどうだろうと「これをします」と決めてしまう。つまり、早め早めに行動する戦略としての意志の立ち上げ方。対する「したい性」は上記の民主的な、時間のかかる意志の立ち上げ方。 

そんな「意志」をめぐる、綾屋さんの素朴な疑問がおもしろかった。 


「でも考えてみると」と、彼女は言います。いわゆる、健常者と言われている人たちが、「あまりにも、うっかりしているんじゃないか」。すぐに意志をまとめ上げてしまっているように見える、と。「空腹感って、そんなに簡単にまとめ上がるの?」と疑問を提起しています。p.208


「うっかり」というワードは愛らしくていい。逆にいえば、ある種の自閉性を抱える人はうっかりしなさすぎている。わたしは自分自身に対して、「もうすこしうっかりしたほうがよいよな」と感じるところがある。うっかりしないと、ぜんぜん行動できないから。あれこれ考慮しすぎると動けない。フレーム問題のようなもので。

基本的に人類はうっかり行動してきたのだと思う。うっかり世界に旅立って、うっかり地球を覆ってしまったんだと思う。人と人との出会いなんて、うっかりの最たるものではないか。うっかり仲間ができたり、うっかりこどもが生まれたり。うっかり敵もあらわれる。うっかり殺し合ったり、うっかり愛し合ったり。そもそも宇宙からして、うっかり始まったんじゃないかな。思わずくしゃみをするみたいに。世界はとてもうっかりしたものに見える。うっかり立ち上がったこの世界で、わたしもうっかり、生きて死ぬのだろう。

うっかり話が逸れてしまった。

意志はいわば「無からの創造」なのだと國分さんはおっしゃる。だとするなら、「うっかり」という言い換えがまさにふさわしいのかもしれない。宇宙の誕生にまで思いが及ぶのも、あながちまちがいではない。逸れていなかった。意志とは、たぶん、うっかりなのだ。そして「うっかり」のごときロジックで責任を問うことはちょいと荒っぽいのではなかろうかと、大雑把に書くとこの本ではそういう議論がなされている。

「ごめんなさい」

「いいよ」

「ありがとう」

牽強付会かもしれないけれど、『〈責任〉の生成』で語られていた〈責任〉のあり方をわたしなりに換骨奪胎すると、結局これになるのではないか。日記742日記744でもとりあげた、この原初的なかたち。人間はどうやってここに至るのか?そういう問いをもってわたしは本を読みすすめていた。

意志を問いただし「お前のせいなんだから謝れ」と責めるだけでは「ごめんなさい」で止まってしまう。國分さんは聖書につたわる「善きサマリア人の譬」に責任の原初形態があるんじゃないか、という。傷ついた人を放っておかないサマリア人は、上記の三項図式だと「いいよ」に相当するのだと思う。

「いいよ」とは、意味の象徴なのだと日記742に書いた。『〈責任〉の生成』を読みながら浮かべた問いはもうひとつある。「意味がわかる」とはどういうことか?というものだ。「責任を引き受ける」とはすなわち、「意味がわかる」ってことなんじゃないか。善きサマリア人は、強盗に襲われ傷ついた人を見て、その意味が瞬時にわかったのだと思う。だから助けた。先に通りすがった司祭とレビ人のふたりには、傷ついた人と居合わせることの意味がわからなかった。

「意志」という概念はたぶん、意味の行き止まりのように機能している。個人の意志でこうなった。だから責任を負う。それ以上は問われない。しかしこれでは、意味が置き去りにされてしまう。行動を意志に還元してしまうと、そこに至るまでの、さらに至ったのちの意味まで不問に付される。

責任の生成とは、意味の生成なのだと思う。この本の私的なキャッチフレーズは「意志から意味へ」だ。意志を問う責任のあり方から、意味を問う責任のあり方へ。國分さんは「サマリア人の譬」を「である」から「になる」への生成変化に接続させる。これをわたしは、意味の生成なのだと理解した。

 

 このエピソードでもう一つ重要なのは、この話をイエスが語るのはどういう場面かということです。聖書のなかでイエスは、律法学者から意地悪な質問をたくさん投げかけられますね。イエスはそれを全部、見事に切り返していくわけですが、この場面では、隣人に関する質問をされます。律法学者は「では、私の隣人とは誰であるのですか?」と聞く。そしてそれに対してイエスがどう答えようが、いつものように揚げ足をとろうと待ち構えているわけです。そこでイエスは善きサマリア人の譬の話をして、最後にこう質問するわけです。「この三人のうち誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思うか?」
 このイエスの答えのどこがすごいかというと、律法学者は「隣人とは誰であるか」と聞いたわけです。それに対してイエスは「誰が隣人になったか」と返したわけです。つまりイエスは「人は誰かの隣人であるのではない。人は誰かの隣人になるのだ」と言っているわけです。僕はこれは本当に素晴らしい答えだと思います。pp.391-392

ここでの「隣人になる」は三項図式で言い換えるなら、さいごの「ありがとう」に当たる。意味の結実。しかし個人的に関心があるのは、サマリア人を「善く」したものはなにか?ってところ。つまり、意味の起点。そもそもサマリア人は、傷ついた人と居合わせたとき、なぜその意味がわかったのか。他者の傷をひもといたのはなぜか。

ひとつ考えられるのは、「ごめんなさい」に対する感受性のもちようか。傷への共感性というか。サマリア人はなんかしらんけど「マジごめん」と思いながら生きてた。サマリア人もまた、傷のある人物だった。そして自分の傷を知ろうとしていた。だから、傷ついた人と居合わせることの意味がすぐにわかった。これ、進研ゼミでやったやつやんけ!と……。

傷を負う人の存在を、その意味を請け負うことについて、わたしはたびたび考えこんでしまう。家族が入院したという友人に「傷や病は、意味の請負人を必然的に生み出しますね」といった内容の怪メールをさいきん送った。死刑囚にも宗教家がつく。人間には一個の「意志」に還元しきれない意味の請負人が必要で、それは〈責任〉の概念ともきっと、深くかかわっているのだろう。

序章で國分さんが話す、こんなエピソードが印象的だった。


  そこで引責の話なんですが、僕の書いた『中動態の世界』がオープン・ダイアローグを考えるうえでたいへん参考になると考えてくださった方々がいらして、関連のシンポジウムに呼んでいただき講演した際、最後の質疑応答で、「私は犯罪の加害者なんです」と前置きされてから感想を述べてくださった中年の男性がいらしたんです。僕はその講演で、「自由意志というのは存在しません」という話をしたんですが、その男性はその話を聞いていて、涙してしまったと言うのです。そしてこんなことをおっしゃいました。「自分はずっと罪の意識を持たなければならないと思ってきたけれども、それがどうしてもうまくできなかった。ところが講演を聞いていて、自分ははじめて罪の意識を感じた。自分が悪いことをしたと感じた」とおっしゃったんです。僕はびっくりした。pp.45-46

 

身勝手な憶測に過ぎないけれど、犯罪加害者の中年男性は講演を聞いてはじめて「意味がわかった」のではないか。〈責任〉という概念が彼のなかで再発明された。「犯罪加害者」として特殊化されていた自己認識が、人間一般をつらぬく哲学のことばで「普通」になった。そこで、それまで目の粗いことばによって寸断されていた意味と意味の、加害と被害のあいだが開通し、「わかった」のだと思う。わたしがこの本を読んで「自閉スペクトラム症」なるものを受容しつつあるように。


だいぶ長いけど、あと一点だけ。『〈責任〉の生成』393ページの「エビデンスと根拠なき『信』」で思い出した、中井久夫の「『信なき理解』の破壊性」を引用しておきたい。

 

 親密で安定した関係をつくろうとする努力は、長期的にはかえって患者の「うらみ」を買いかねない。理解しようと安易につとめるならば「わかられてたまるか」という怒りを誘いだす。

 患者は「わかられない」ほうが安心している。理解を押しつけると、今度は「わかっていない、もっと理解せよ」という際限のない要求となる。人間は人間を理解しつくせるものではない。だから「無理難題をふっかける」というかたちの永遠の依存になってしまうのである。

 「理解」はついに「信」に及ばない。あなたの配偶者や子どもを「信」ぬきで理解しようとすると、必ず関係を損ない、相手を破壊する。統合失調症の再発も確実に促進する。

 婚約者にロールシャッハ・テストを施行しようとする精神科医はフラれて当然なのである。ロールシャッハ・テストは、治療者の「ワラをもつかみたい」気持ちで手がかりを求めるときにおこなうものである。人格障害といわれる人は「信なき理解」にさらされてきた人であるかもしれない。

中井久夫+山口直彦『看護のための精神医学/第2版』(医学書院、2004、p.230)


「理解」はついに「信」に及ばない。これはあらゆるものごとに通じる洞見だと思う。「わかんない」の共有が「信」になるのかな。いきすぎたエビデンスベイスドはこの「信なき理解」にたぶんちかい。そもそも「わかる」はひとりきりの経験で、他人の現実についてはあやふやな想像ベースで関与するしかできないんじゃないか。そんな気もする。

上で書いてきた「意味がわかる」の想定は、ひとりきり。誰かほかのひとに説いたり、諭したりするための「わかる」ではない。ただの一存で傷ついた人を助ける。あるいはひとり静かに涙する。そのぶんだけの「わかる」。犯罪加害者の中年男性が國分さんの話を聞いてなにをどうわかったのか、それはぜんぜんわかんない。でも、なんか泣いちゃうほどわかったんだろう。とりあえず、信じるしかない。

書きながらいま気づいたけれど、わたしのいう「意味」は「信」と似ている。「意味がわかる」とはどういうことか?この問いはだから、「信じる」とはどういうことか?とも言い換えられる。わたしが「わからず屋」であるゆえんは、「信」まで届くことばしか受け付けていないからなのだろう……。もっとちゃんとわからなくなりたいのだ。「わかる」とは、ちゃんとわからなくなることだ。

「信じることは決断できない」と占星術研究家の鏡リュウジさんが以前、ラジオでおっしゃっていた。「これを信じよう」と意志的にこころざせばすぐさまカチッと「信」が立ち上がるほど人間は単純ではない。「信」の立ち上げには、時間がかかる。自分の意志とはべつに、なんかしらんけど信じている。よくわかんないけど、わかっている。そこに「信」がある。「意志がある」ってことさえ、なんかしらんしよくわからんけど信じてる。

「意志」はついに「意味」に及ばない。そういう話でもあるのかもしれない。たぶん、話を早くすすめる時短テクニックが「意志」で。「意味」はいわば民主的に、それとわからないくらいじわじわと湧き起こる。「意志」には超越的な面がある。スパッと爽快な。「意味」はじれったいほど人間サイズの時間に宿るもの。二本の足で歩くような。愚直な人間サイズの「信」。特別じゃない。どこにもいるわ。ワ・タ・シ少女A。そんなところかしら……。だんだんよくわかんなくなってきたのでそろそろ終わります。お粗末さまでした。おつかれっす。撤収。



コメント

anna さんのコメント…
私が最後にIQテスト受けたのは確か高校一年生のときだったかな。
担任の先生が私の結果をぼろっとクラスのみんなにしゃべってしまって大迷惑したのを覚えてます。
言語性IQと動作性IQってのは初めて知りました。きっと私の場合は動作性IQより言語性IQが低いと思います。(ちゃんと考えずにいろいろやっちゃうやつ)
nagata_tetsurou さんの投稿…
ちゃんと考えずにうっかり宇宙を始めてしまうタイプですね。始める人はガンガン始めちゃっていいと思います。そんで、考えがちな人があとからそれを整理する。みたいに、補完し合えれば理想的です。学校の先生って、自分が社会に出てからふり返ると変な人ばかりだったなーと感じます。いや、わたしもよく「変わった人」呼ばわりされちゃうのだけど……笑。