多摩川べり。夕暮れどき。立ち止まり、西陽を撮る人々の影が校舎に映えていた。日本には白い建物が多い。これは映画から受ける大雑把な印象で、邦画は洋画にくらべて街の色がすくない気がする。そんなことないかな。白は投影を鮮明にうつす。白の多さはつまり、スクリーンの多さでもある。そう考えるとなんとなくおもしろい。スクリーンの多い街。もちろん印象に過ぎないので、じっさいに日本の街並みが白っぽいのかどうかはわからない。 スクリーンの多い時代。これならいえる。人々が沈むお陽さまを自分用のちいさなスクリーンに投影していた。わたしはそちらに背を向けて、建物の投影を写真機に投影する。投影の投影……。なんかひねくれていて、やだな。斜に構えちゃって。と感じたので、いいわけのごとくふつうに夕陽も撮る。しかし、これはこれで恥ずかしい。あっぱれすぎやしないか。こんなに堂々として、いいのかな。いいか、きれいだったし。でもなー。……なにをしても葛藤にまみれる。 堂々として、いいのかな。こうした気分がわたしの場合、猫背気味の姿勢にそのままあらわれている。さいきんは胸を張ることにもようやく、慣れてきたと思う。深く呼吸をすること。夕陽だって富士山だって撮りゃあいい。何億枚目でもかまわない。 自分は人類全体において、何人目に生まれたのだろう。そんなことをたまに思う。人類としてのエントリーナンバー。どの時点から数えたらよいやら。しらないけれど、生まれた。どういう因果か、順番がまわってきたらしい。こうなったらもう、死ぬまで番を張るしかない。いい感じに世界を見とどけておこう。何があっても。 しかし番長よろしく堂々としすぎていても、どうか。「頭が上がらないな」って気持ちも、それなりにたいせつだろう。「足を向けて眠れない」とか「お天道さまに顔向けできない」とか。そうしたなにか、倫理観を担保してくれる自分よりおおきなものの存在も忘れてはいけない。 さいきん、森喜朗氏の失言に関連して「老害」ということばを何度か耳にした。たしかご本人も口にされていたと思う。医師の高須賀氏によると、「老害とは“他人の目をビクビクと気にしたくない”という、私達の“なりたかった姿”の果て」なのだという( なぜ人は、仕事を辞めると劣化してしまうのか。 | Books&Apps )。昨年、なんの気なしに読んでいた記事をふと思い出した。 「実は...