スキップしてメイン コンテンツに移動

日記792


イスとタバコの絵。


図3-1を「タバコがイスの右にある」と表現するのは自然だが「? イスがタバコの左にある」と表現するのは奇妙である。図3-1を100人以上の大学1年生のクラスで見せて確かめたことがある。すべての学生が「タバコがイスの右にある」は自然だが「? イスがタバコの左にある」は奇妙だという意見であった。


高橋英光『言葉のしくみ 認知言語学のはなし』(北海道大学出版会、p.40)より。おもしろい。とてもおもしろい。これは「英語でもまったく同様である」という。ただし条件を変えて、「もしイスの底に車輪があり部屋から部屋へと移動している状況なら “The armchair is to the left of the cigarette” (イスがタバコの左にある)は完全に自然な文になる」と。


 「タバコがイスの右にある」と「イスがタバコの左にある」は論理的に等しいのになぜパラフレーズできないのか? また、イスが動きやすいと考えるとなぜ奇妙でなくなるのか? それはわたしたちが単純な空間論理のみで言葉を使っているわけではないからである。多様な人間的ものの見方が関与しているためである。人間的ものの見方とは、前景と背景に二分する性向、XとYの相対的大きさと形、ヒトにとっての機能と用途などである。
 客観世界ではタバコとイスは平等である。しかしヒトの認知は平等でない。ヒトの認知は差別的である。タバコを前景化しイスを後景化したがる。このためタバコが主語に選ばれる。わたしたちの言葉は無意識のうちにヒトの認知的原理に支配されている。p.41

わたしはここでいわれている「奇妙」にあまり共感できない。そこがおもしろい。「タバコがイスの右」であろうが「イスがタバコの左」であろうが違和感はさほどない(すこしある)。だいたいおなじだ。だけど、多くの人はここにかなり違和感があるらしい。なるほど、そうだったのか……。

これは日記765に書いた内容とつながる。数学がどーたら人権がどーたらゆうてた回。「人権」って概念はここでいう「客観世界」にちかい。タバコとイスを平等にあつかうように、どんな人にもひとしく付与された権利。誰もが主語たりうる。それが人権。

「書かれてないことを勝手に推測しない力」は数学で鍛えられる、というツイートを引用していた。「タバコがイスの右」と「イスがタバコの左」のあいだにある違和感はまさに、「書かれてないこと」なのだよね。どこにも書かれていない。単にイスとタバコが並置されている絵。にもかかわらず推測がはたらいて、タバコを主語に据えないと「奇妙」になる。いってみれば空気を読んでいる。

しかし少数ながら、「どっちでもいい」と一刀両断できる人もいる。いわば空気の読めない平等な人。奇妙にロジカルな人。ある種の「理系的」とか「自閉的」とかいわれる、そういう人たちの思考の特徴のひとつは「めっちゃ平等である」ってとこだと思う。あらゆる情報を、ひとしなみに捉えている。

注意の重みづけがちがうのかもしれない。空間に対する感受性に差がある。空間認知に差があれば、おそらく時間認知にも差が生まれる。なんかいろいろつながっておもしろい話です。個人的に、やばいぐらいおもしろいです。

わたし自身、空間認知がとても2次元的だと思う。3次元オンチといったほうが正確か。ぺったんこの世界に住んでいる。たいら。「どっちでもいい」の人。「理屈っぽい」とよく言われる。一方で、理屈にならない感覚をたいせつにしようともする。このへんがわたしのグレーなところ。

認知言語学はそんな自分の性向に合っており、たのしい。形式的な論理だけではなく、多分野と連携してことばの心理的・経験的なふわっとした側面にも果敢に光をあてていく。高橋英光『言葉のしくみ 認知言語学のはなし』(北海道大学出版会)は、いい入門書です。



5月19日(木)

なぜか火曜日かと思っていた。曜日が自在に飛び跳ねる。背骨コンディショニングのストレッチをはじめて、まだ数日だけど体が軽くなった気がする。とくに腰回り。すくない力で歩ける。柔軟性の重要さが身にしみる。相変わらず筋トレと瞑想もつづけている。野菜食、禁酒も。こう羅列してみると意識の高い「できる人」みたいだな……。すげー自己管理してようやく人並みって感じです。

雨がちな天気がつづく。すこしの晴れ間が妙に美しく見えた。きょうはそんな日だった。



コメント