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日記825



 自閉症について、また、文学的な読解や執筆について神経科学的に探究しているうちに、私はこんなふうに考えはじめた――文学は、自閉症者、ニューロティピカル双方にとってひとつの矯正手段となりうるのではないか。あるいはある種の調停と言ってもいいかもしれない。自閉症者では感覚が思考を圧倒する。ニューロティピカルでは思考が感覚を圧倒する。言うまでもなく、文学は感覚と思考を結びつけるものである。pp.65-66


ラルフ・ジェームズ・サヴァリーズ『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む』(みすず書房)より。「ニューロティピカル」とは、定型発達者のこと。上記の引用は手前味噌ながら、横道誠『みんな水の中』(医学書院)の感想としてわたしが書いたことにもちかい。


(横道氏は)「文学と芸術とは、混沌とした宇宙に明晰さを与えるものにほかならない(p.51)」とも語っている。ここがおもしろい。

というのも、定型発達者にとってはおそらく逆なのではないかと思うからだ。既成の概念から逸脱した、あいまいな世界のなかの自己と向き合う営為として芸術がある。しかし、「既成」に組み込まれていない「混沌とした宇宙」に棲む発達障害者の側からすればそれは、明晰さを湛えた光のようにうつる。

日記812

 

ここでの「あいまい」は、サヴァリーズのことばで「感覚」にあたる。「既成概念」は、「思考」にあたる。「自閉症者では感覚が思考を圧倒する。ニューロティピカルでは思考が感覚を圧倒する」という、これは「自閉症者ではあいまいさが既成概念を圧倒する。ニューロティピカルでは既成概念があいまいさを圧倒する」と言い換えることもできよう。

文学にかぎらず広く芸術的なものの見方は、発達障害と定型発達の結節点となる。わかっていたものがあいまいに溶け出し、わからなかったものに輪郭が宿る。そうした営みを芸術と呼ぶのではないだろうか。わかっていたものがわからなくなる。言い換えれば、喪失からはじまる営為。

作家の高橋源一郎が『誰にも相談できません』(毎日新聞出版)という新聞の人生相談をまとめた本のなかで、こんなことを書いていた。芸術系の仕事をしている女性の相談に寄せて。


 若さを、美しさを、健康を、感覚の鋭さを、あなたは失ってゆくでしょう。では、それは、耐えられない苦しみしか生まないのでしょうか。そうではないことをあなたは知っているはずですね。なぜなら、あなたが従事している「芸術」という営みは、「失う」ことが苦しみだけではないことを、人間に伝えるために存在しているからです。p.35


サヴァリーズの本に登場する自閉症者のティトは、自分の感覚のゆがみについてこう話す。「自閉症では、奇妙なことのほうがより真実なのだ」(p.54)。あたりまえのことなど、何ひとつない。自閉症的な世界感覚では、「失う」が日常の基本にあるのかもしれない。日が昇っては落ちる。視界は光に浮かび、闇に沈む。それだけのことでさえ、とてもよくわからない。


関連してなんとなく思い出した。高橋源一郎の小説『いつかソウル・トレインに乗る日まで』(集英社)から、すこし長く引用したい。朝を失ってみること。



「朝に感謝しましょう」とファソンはいった。
「朝に、感謝?」とぼくはいった。
「朝が来たことに感謝するの」
「どうやって?」
ファソンは、窓を開けた。それから、こういった。
「まず、朝が永久に来ないと考えるの。いつまでも夜は明けず、暗いままで暮らすことを考えるの。お祖父さんやお祖母さんの頃には、朝が来て、それがどんなに楽しかったか、という話を聞いて育った人たちがたくさんいたと考えるの。それがどんなに楽しいか、想像してみるだけの人たちのことを考えるのよ。その人たちは、いつか朝が来ると信じているの。それがどんなに素晴らしいことか考えて生きていくの。でも、朝はいつまでたってもやって来ない。そのうち、朝なんてものは存在しない、とみんなは思いだすの。そんな愚かなことを考えるのは止めようと、みんな思うようになるのね。何百年も、何千年もたって、もう朝なんてもののことを覚えている人もいなくなった頃、それでも、何人か、『伝説』の朝というものを信じている人たちがいるの。そのうちのひとりが捕まるのよ。『朝』なんていう危険思想をふりまいたという理由でね。そのひとりは、処刑されることになるわ。処刑の前の晩、独房の窓の鉄格子から外を見るの。真っ暗なの。星も月もない。空にひとかけらの光も見えないの。時間が来て、刑務官がやって来る。『さあ、時間だ。おまえを吊してやる。おまえは、朝とかなんとか、わけのわからないことをいっているらしいな。なんでも、朝というものが来ると、空に光が満ちるというじゃないか。おまえは手品師か? それとも、神様にでもなったつもりなのか? 馬鹿馬鹿しい』といって、そのひとりに手錠をはめ、刑場に連れていくの。そのひとりは、手を後ろで縛られ、目隠しされ、首に縄をかけられる。刑務官が『なにか、いい残すことはないか? 詐欺師どの』といった時、周りがざわめき始めるの。『電気をつけたのか?』とか『なんか、変だぞ』と囁く声が聞こえてくる。気がつくと、刑場の上空が、青く霞みはじめているの。やがて、東の方がオレンジに近い色になってくると、刑務官たちは、恐怖のあまり逃げだし、そのひとりだけが取り残されるの。なにかが起こったことが、そのひとりにもわかったわ。でも、なにが起こったんだろう。後ろ手のまま、そのひとりは、頭を振ってみる。しばらくして、目隠しが外れたの。朝が来ていた。恐ろしいほど大量の光が、空の一点から、放射して、世界の隅々に向かって流れているのが見えた。そのひとりは、後ろ手のまま、朝を見ていたの。そして、こんな時に、なんといえばいいのか、聞いたことがあると思ったの。そして、懸命に思い出そうとするの。そして、そのひとりは叫ぶの。『おはよう!』って」
「そういうことを考えてみるんだね」
「そう」
ぼくは、目を瞑り、ファソンの言ったことを想像してみた。それから、おもむろに目を開き、朝を見た。
「ファソン」
「なに?」
「朝が来るというのは、素晴らしいね」
「ええ」



長い語りの末尾に「そして」「そして」「そして」と接続詞がつらなる。接続詞のつらなりは、感情のつらなりでもある。読む人を、聞く人を連れ出したい気持ちが高まるとき、接続詞が多用される。話しことばだと、より顕著になる。さいきん注意して接続詞を聞き分けるようにしています。解釈枠組みとして、個人的にはおもしろい。

 

 


 

「夏は暑い」と「暑いは夏」。この順番のちがいが定型発達者と自閉症者のちがいであると、数日前にSNS上で話した。雑なたとえ話だけど、図式的にはわかりやすいんじゃないかと思う。あくまで大雑把な理解です。

定型発達者は、「夏」という一般的な共通のカテゴリーが最初にあって、そこへ自分の感覚「暑い」を当てはめる。夏は暑いですねーと。こうした思考様式。話が早い。

対して自閉症者は最初に「暑い」という自分の感覚がくる。なんだか暑いぞ。やばいぐらい暑い。なんじゃこりゃ~! と考えて考えて、「夏」に行き当たる。暑いのは、夏のせいだった! いうなれば夏を失って、いちから夏を探り当てる。これが自閉症的な思考様式。

暑いのは「夏のせい」というより、地球の自転軸が公転軌道面に対して傾いておりうんぬんかんぬんと語り出すのも、もしかすると「自閉症的」とされるのかもしれない(通念上の印象として)。これもまた夏を探り当てる構え。「夏」ってのはなんなんでしょうか。しょうじき、わたしはまだよくわかっていない。「暑い」って感覚もけっこう謎だよ。

定型発達者からすれば、自閉症者の話はまどろっこしい。自閉症者からすれば、定型発達者の話は早すぎる。いわゆる「コミュニケーションの障害」といわれている、その内実の一端はこのような思考様式の齟齬だと思う。

ちまたに流通する「自閉症者は人の気持ちがわからない」みたいな物言いは、根本的に考えなおす必要がある。まず「定型発達とは何か?」ってところから、双方ともに洗いなおしたほうがよい。あたりまえだが、双方向的でなければコミュニケーションはコミュニケーションたりえない。

わかりやすいカテゴリーは、クラウド上のファイル共有みたいなものだ。共有済みファイルにアクセスするようにことばを扱う人と、孤軍奮闘で地上を這いずりまわってことばを立ち上げる人がいる。サヴァリーズの本では、カテゴリカルなトップダウン思考と感覚にもとづくボトムアップ思考とのちがいとして語られる。

そういえば「トップダウン/ボトムアップ」の発想も『みんな水の中』の感想に書いていた。僭越ながら、サヴァリーズ氏とは気が合うみたいだ。というより、自閉症および定型発達なるものについて考えていけば、おのずと見えてくる構図なのだろう。



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