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日記873

 

 

M-1ではじめて見たコンビ。ランジャタイ。友人から「好きそう」と言われて、たしかに好きだった。しかし、賞レースの結果は最下位だった。審査員では、立川志らくさんだけが高得点だった。なにかランジャタイにハマる特有のパーソナリティがあるのだろう。

脚本家の三宅隆太さんが人の資質を「グランプリ」と「審査員特別賞」に大別しておられたけれど、ランジャタイはどちらかというと「審査員特別賞」をもらうほうだと思う。今回のM-1であれば、最下位ながら立川志らく賞をとったといえよう。多くの人はあきれ返るネタかもしれない。しかし、少数の人に深く訴求する。そんなタイプ。

 

 最大公約数的な観点からは外れてしまうかもしれないけれど、でも、「それ」を美しいと感じるひとはいる、面白いと感じるひとは必ずいる。その数はもしかしたら大勢ではないのかもしれないけれど、同じようにその作品から励まされたりするひとは必ずいる。だから、その価値は「ないこと」にはできないし、したくない。
 
三宅隆太『スクリプトドクターのプレゼンテーション術』(スモール出版、p.92)

 

そして、すべての人は個人的な「審査員特別賞」を授かって生きているのだと思う。あなたの存在を「ないこと」にはできない、という。「グランプリ」が多くの人に認められるストレートな肯定だとするならば、「審査員特別賞」は否定経由の肯定だ。広く認められないのはわかっている、でも彼らのネタを「ないこと」にはできない。したくない。させない。そうした個人の意志が「特別賞」として結実する。

余談ながら、三宅さんの語り口は情感に富んであたたかい。たとえば、引用した箇所の「でも」。消しても意味は通るのだけど、「ないこと」にはできないのだ。この「でも」は、意味よりも体温をつたえている。三宅さんの熱を感じる。ちょっとあふれてる。末尾の「できないし、したくない」もあふれてる。「できない」で止めてもいいのに、そうしない。したくないのだ。ここに三宅さんがいる。意味を超過したノイズに体が宿る。「必ずいる」の重複も、三宅さんがほとばしってる。

話をつなげるなら、ランジャタイの漫才もノイジーで人によっては不快だろう。風が強い日に猫が飛んできて飼うことにしたらとつぜん耳から侵入され、ガシャンガシャン操縦されてスチョーン「将棋ロボだー!!!」みたいな。もうぜんぜん意味がわからない。意味よりも身体的な衝動に訴える。ダンスや音楽に近いパフォーマンスだった。じっさいスリラーの振りやムーンウォークを披露している。

ランジャタイを見て、いくつか思い出したもののひとつにレイザーラモンRGのネタがある。大好きなネタだ。わたしは芸人のネタで笑った経験があまりない。興味深く感じた経験ならたくさんある。対象化して、理解しようとしてしまう。そうすると笑えない。自分の小賢しさに嫌気がさす。でも、RGのこれは笑うしかなかった。




F1グランプリのテーマ曲、「TRUTH」を歌うだけ。これもまた、人によっては「ポカーン」だろう。勢いしかない。考えた形跡がほぼない。降りてきたインスピレーションを未加工でそのままお届けしている感じ。選曲一発で魅せる。衝動的で、とても純粋。「我ここにあり!」と言わんばかりの存在感を見せつけてくれる。

なにより無理がなくて似合っている。自分がもっともやりたいこと、自分の生理に合うことを感覚的にバシッとつかまえている。気持ちいいくらい。生理に忠実。ゆえにワイルド。

ランジャタイにもおなじような、生理的忠信を感じる。思考と身体のあいだに時間差がない。言語を置き去りにする。それがわたしにとっては福音として響く。ことばに縛られがちな人間だから。

あと、背景に漫☆画太郎がほの見える。調べたらお好きなようで得心した。わたしも好きです……。もうひとつ漫画でいうと、杉浦茂っぽさも感じた。ツッコミの伊藤さんが杉浦茂で、ボケの国崎さんが漫☆画太郎。「よしなよ」と「ウギャーー!!」のコンビ。どちらの漫画もつくり込んでいない即興的な魅力がある。画太郎先生はめちゃくちゃ描き込んでいるけど、つくり込んではいない。

 


左が杉浦、右が画太郎。ランジャタイでいうと、左が伊藤で右が国崎。こういう絵柄のふたりではないかしら。いま挙げたすべてに共通するのは「あんまり考えていない感じ」なのよね。あくまで「感じ」であって、じっさいは考え尽くされているのかもしれない。それはわからない。

考えていない感じ。なんだけど、上手さはある。しかし、その技術が奇妙な思考回路によって奇妙な形式で運用されている。そこも共通項かな。もうひとつ。終わらない、終わりたくない、まとまらない、そういう意志も感じる。RGのあるあるネタなんかわかりやすい。オチを宙吊りにして歌いつづける。オチなんかどうでもいい世界観なのだ。

ずっとあそんでいたい。おなじことを何度でも繰り返したい。幼稚といえば幼稚なのだけど、その幼稚さがうれしい。「ランジャタイにハマる特有のパーソナリティ」のひとつは、これなんじゃないかな。こどもっぽさ。「ちゃんと始めて、ちゃんと終わる」という社会性のなさ。

 

 

 

M-1ネタのフルバージョンを見て、妙な納得感があった。後半、「将棋ロボだー」「カニだー」「なんだこれー」を国崎が繰り返す、伊藤は見守る。ほぼそれだけ。繰り返しながらもすこしずつ変化があって、なんかミニマル・ミュージックみたいだと思った。そしてミニマル・ミュージックも、わたしの好むところなのだった。

端的にいって自分の選好は、反復と遅延の内にある。あるいはそこで生じる、ひずみ。それはもしかしたら、「憂鬱と官能」ともいえるのかもしれない。いつまでも終わらないで、ここにいる日々そのものともいえる。「将棋ロボだー」「カニだー」「なんだこれー」を呆然と見つめながら、なんとなく甲本ヒロトの発言を思い出していた。

 

ロックンロールバンドが目指す場所はね、無いんだよ。中学生でもいい。小学生でもいい。高校生でもいい。例えばホウキでもいいんだ。ギター持ってなくてさ。ロックンロールに憧れて教室の隅っこでワァーってなる。すっげぇ楽しいんだ。そこがゴールです。そこにずっといるんだよ。そっからどこにも行かないよ。それが東京ドームになろうが教室の隅っこであろうがそんなの関係ないんだ。ロックンロールバンドは最初から組んだ時点でゴールしてんだ。


Tumblrで拾ったものなので出典はよくわからんけど、いい話。「そこにずっといる」。これはランジャタイの基本姿勢ではないだろうか。とにかく全力で存在している。存在。そういえば、国崎さん(ふっとう茶☆そそぐ子ちゃん)のnoteには、こんなことが書かれていた。

 

「よくわからないこと」を、「よくわからないまま」答えを出すのが大好きで、

算数のテストで

125✖️55.6÷2=

みたいな答えに、

「わかりませんが、

もしかして50とかですか?」

と答えたら

「❌ 」

だけつけられたそのテストを見て、


「のひょ〜〜っ😆」


と思っていた。


のひょ〜〜|ふっとう茶☆そそぐ子ちゃん|note

 

これは日記854で引用した小出楢重の感性によく似ている。

 

  私は算術という学科が一等嫌だった。如何に考え直しても興味がもてないのだった。先生に叱られても、親父から小言を食っても、落第しかかっても、一向に好きになれなかったのみならず、興味はいよいよ退散する一方であった。
 5+5が10で、先生がやって生徒がやっても、山本がやっても、木村がやっても、10となるのだ。10とならぬ時には落第するのだからつまらない。
 私は5+5を羽左衛門がやると100となったり、延若がやると55となったり、天勝がやると消え失せたりするような事を大いに面白がる性分なのである。

『小出楢重随筆集』(岩波文庫、p.53)

 

854を読み返すと、結論めいたものとして「交換価値や使用価値よりも、存在価値に重きを置いている」と書いていた。つまり、この考え方の延長線上にランジャタイがいた。と、そういうことなんですね……。よくわかるような、わかんないような。なにはともあれ、彼らのネタがおもしろかったんです。いや、たぶんおもしろかったと思う。たぶん。

 

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