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日記886


なにが禁なのかわからなかった「禁」。かぎりなく書道にちかい。小学校の教室のうしろに「夢」などと貼られているアレを連想する。機能的でないものは芸術にちかづく。超芸術トマソンなんかは、だいたいそういう話ではないか。無用の長物。目的がなくなったあとに、なお残るものたち。

この「禁」は結果として、なにかを禁じるための「禁」ではなく、ただ書かれた純粋な「禁」に見える。略して純禁。文字のかたちだけが屹立している。なにを禁じているのかは、書いた人だけがわかる。ひとりだけにしかわからない。

「かけがえのないものは、まちがっている」と前に書いた。その話ともつうじるかな。なぜだか誤りや、ゴミみたいな無用のものに昔から関心がわく。始まる前のものや、終わったあとに残るもの。自分のことを、「もう終わった人間」と思っているふしがある。逆に「まだ始まっていない」としてもいい。どっちでも……。

一日のうちでもっとも居心地のよい時間帯は、午前3時か4時くらい。終わったあとであり、始まる前でもあるとき。一日単位に縮約するとわかりやすい。とても静かなとき。心の在り処。「静けさとは、いつも膝まずいているものです」とヤニス・リッツォスの詩(中井久夫訳)にあった。未明の静けさに倣い、ただ膝まずいていたい気持ちがある。

未明は、兆候的な時間といえるかもしれない。詩句が馴染みやすい。「詩とは言語の兆候的側面を前面に出した使用であり、散文は言語の図式的側面が表になった用法である」と中井久夫は『現代ギリシャ詩選』(みすず書房)の「まえがき」に書いている。

この定義は、T・S・エリオットの「イタリア語があまり分からなかったころのほうがダンテがよく分かった」という話に触れて開陳される。わからなかったころのほうがよくわかった。そういう感覚がたぶん人には備わっている。誰にでも。

 

兆候性への敏感さとは、言語の喚起する予感や余韻、あるいは重層的な意味、辺縁的な意味、さらに寄せては返す連想などなどへの感覚である。知りそめた外国語の語や響きには、そのあらゆる誤解や未熟な理解と並んで、あるいは重ね合わせに、きらめく兆候性がはらまれている。pp.3-4


誤解や未熟さとともにある、きらめく兆候性。哲学者の古田徹也氏は、こどもの未熟なことばにやはり「きらめき」を感覚していた(日記884)。まだわからない時分のきらめき。いくつになってもわからないことは、山ほどある。未熟者だ。その山は、「きらめく兆候性」の山とも言えるのだろうか。

こうしてつらつらことばを並べながら、「もうわかった」と「まだわからない」の波間にたゆたうような感覚がある。二字熟語で要するに、分別と多感。ジェイン・オースティンの描いた、エリナーとマリアンが寄せては返す感じ。ちょっとなにを言っているのかわからないが、そういうことにしてほしい。



ここんとこ、足の指が痛くてちょーやばかった。おそらく原因は尿酸値。といっても痩せ型だし、食生活の乱れもない。実験的に断食していた時期もあったが、さいきんはふつうに三度の食事をする。

藁をもすがる思いでたどりついた、ためしてガッテンのサイトによると、尿酸の排泄を悪くする主な原因は「肥満」と「体質」らしい。わたしの場合は、ほぼ確実に遺伝的な体質だろう。父は痛風の薬を飲みつづけて何十年にもなるベテラン選手。いよいよわたしもその道にスカウトされたというわけか。

しかし痛風業界は文字通り茨の道だと聞く。できるなら、そんなお誘いはお断りしたい。スカウトマン(高尿酸)を振り切るためには、乳製品を摂るとよいのだそう。ガッテン師匠がそう言ってる。「乳製品ヲ摂取シ尿酸ヲ排泄セヨ」とサイトにあった。

信憑性は知らんが、薬のつもりで一週間ほどヨーグルトと牛乳を三食欠かさず摂取した。加えて、野菜中心の食生活。そのおかげか、いまとくに痛みはない(違和感はある)。

ついに尿酸を気遣う人生のステージに入ったかと、感慨ひとしお……。ちょっと頭も禿げてきたし、だんだん壊れてどんどんおもしろいことになる。年取るとネタが増えてしょうがない。

激しい筋トレも尿酸値を上げるという。ここ2ヶ月ほどの生活を振り返ると、筋トレのやり過ぎがいちばんの原因だと思った。これからは尿酸のことを考えながらトレーニングします。尿酸思いの人間になります。心ごと、体ごと。





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