6月が終わる。と書きながら、自分の推敲過程を観察。最初に「そろそろ6月が終わろうとしている」と書いて、次に「そろそろ6月が終わる」と削り、最終的に「6月が終わる」で落ち着いた。努めて短く削る。いつもそうしている。 今月は2回、とあるダンスの制作過程を見学させてもらった。貴重な機会だと思う。ありがたい。その後に1000字前後の感想を書いて送る。言語化要員なのだと、勝手に自分を位置づけている。たいしたことは言えないけれど、すこしでもお役に立てればと願う。 たいしたことは言えない。「自分の考えることなんか、ほかの誰でも考えつくでしょ」と見限ってしまう傾向がある。しかし、そんなことはないのかもしれない。謙虚に見えて傲慢な態度だし、これは改めたほうがいい。自分にできることは他人にもできるという、謙虚を装った自己中心性が垣間見える。 自分を基準にものごとを見る傾向は誰にでもあるから、ある程度は仕方がない。とはいえ、固有の「ふつう」をあまり拡大させてもいけない。誰かにとっては思いもよらない、へんなことを考えている部分もある。 ウェブ上になんだかんだ書き散らかしてはいるものの、他人の評価に(ほとんど)さらされていないため、自分の程度がわからない。どこまで「できる」のか。どこまで「できない」のか。ひとりで見積もることは困難だろう。 「共同性が欠如している」と前に書いた。それは自分の分布域がわからないことを意味する。ある集団内で、どのような位置を占めるのか。ここで書いているものは、どういった性質の文章なのか。果たしておもしろいのか。読者がいるとするなら、どのあたりの層なのか。一般に読みやすいのか、読みにくいのか。結局のところ、ひとりではなにもわからない。無闇。 と反省しながらも反面、そんなことはどうでもいいとも思っている。ぜんぶどうでもいい。謙虚さと傲慢さが同居する。両輪を駆使して狡猾に人生をサバイブしたい。 ダンスを観ながら、詩を読む経験と近いものを感じた。音と体であらわされる修辞の数々が何を意味するのか。そこにおいて、わたしは何を見ることができるのか。どのような意識のうごめきから、どのような仕組みが構築されているのか。もちろん正解はない。確信が得られないなかで模索するようすが心地よかった。 ダンサーは立ち姿からぜんぜんちがう。その場で撮った写真を見返しなが...