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日記930


十一月八日(金)

幸田へ。スプレーを買ってパチンコ。
久しぶりにミルキーウェイへ。麻雀五百五十円負け。オンザロックを飲んでいる。

著者不詳『創作 1973年10月―1975年7月』より。


『創作』は高円寺で円盤というCD/レコードショップを営む田口史人氏が古物から拾い上げた日記を本にしたもの。引いたのは74年の11月8日。金曜日。

かつて、そんな日があった。誰の日々も、飾らずにそのまま記述するだけでじゅうぶん興味深いのだと思う。なにごとかを言おうとする必要はない。自分を一般化する必要も、特殊化する必要もない。ただ、そうあった。日記はそんな態度で書くことを許してもらえる、唯一のジャンルではないか。それぞれの平時をあらしめる。

このブログは「日記」と銘打っているけれど、なにかを言おうとし過ぎている。いつも、なにかを言おうとしてしまう。いや、それが自分にとっての「平時」なのかもしれない。公開されていようがいまいが内容は変わらない。ごちゃごちゃ書いている。固有の「普通」をやり通せばいいのか。しかしそんなに振りかぶってことばを使っちゃいないよ、誰も。

 

11月8日(火)

日記925に書いたお爺さんのようすを親近者からうかがう。入院中の病室で暴れるため、拘束状態なのだとか。やるせない。はやく退院できるように願う。こわいのだろう。「暴れる患者は恐怖から」と中井久夫は語っている。すこし写す。


 患者さんのこころの底の共通点といえば、恐怖です。「暴れる患者は恐怖から」と言ってまず間違いありません。医療者への個人的な怨恨から暴れるわけじゃないことを忘れないようにしましょう。例外はもっともな場合がけっこう多いです。いちばん多いのは屈辱感を起こさせる場合です。これは患者であろうとなかろうとほめられたことではありません。
 赤ん坊は泣き出したらだいたい十五分は泣いていますね。即刻泣きやませようと思ったらかえって火に油を注ぐみたいになって、いつまでも泣いてしまいます。暴力も同じだと思うのです。暴力的になっている状態はだいたいは十数分くらいでしょうが、長く続く場合は本人のこころのなかにも周囲の人々の反応にも、火に油を注ぐものがあるのでしょう。よく見ていると中休みが何度もあります。 

『こんなとき私はどうしてきたか』(医学書院、pp.77-78)


同じ本のなかで中井は、「暴れるのはエネルギーがないから」とも述べる。


 回復にはいろいろな段階があります。山の頂上は精神運動性興奮状態。コントロールができない状態です。しょっちゅう興奮したり暴れている患者さんがいないわけではない。次が幻覚・妄想状態。その次に心身症。いま言った脱毛症だとか下痢や便秘を繰り返している患者さんです。そしていちばん麓には、回復初期で非常に疲れている患者さんたちがいる。
 じつはいちばん上の精神運動性興奮の時期が、エネルギーがもっとも低い時期じゃないかと私は思います。まとまった行動ができなくて、ただ興奮するというのは、まとめるエネルギーがないというか要らないということです。自分の“知情意”をまとめていく回復途中のほうが大きなエネルギーが必要なんですね。それに比べれば、そのへんの物を壊すようなエネルギーはたいしたことないと思いませんか。(pp.147-148)

 

暴れる人は「エネルギーが有り余っている」と見做してしまいがちだが、考えてみれば中井久夫の言うとおりかもしれない。わーっとなるよりも、広い視野を保って冷静にふるまうほうがエネルギーを酷使する。逸脱しないように一個の体をまとめておくって、じつはすごいこと。これはたぶん、人間一般に通用する知見だろう。

「恐怖」と「エネルギーの不足」。興奮状態の人を前にしたときの手がかりとして、最低限この2点は考慮しておきたい。自分自身の状態を読むためにも、きっと有益。

わたしから見ると、都市生活を営む人々は見惚れてしまうほどよくまとまっている。川上未映子がエッセイに書いていた「奇跡」をしばしば思い出す。

 

 今日私を含めて往来する人々を見ていたら、これまでの我々はなんという任意の信頼関係で結ばれて、なおかつ先天的な距離を保ちながら完全に棲息していることだろう今のところ! だって歩いていて突然ふくらはぎを噛みつかれたことないし、熱湯の鍋に引きずり込まれたこともない。けれど当然のことながらこれから先は判らへん。偶然の信頼の上で成り立っている何事も起こらない日常と、突然殺されかけたりする日常の、いったいどっちが奇跡に近い出来事やろうか、どっちも奇跡か、どうも奇跡。やあ奇跡。

『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』(ヒヨコ舎)


ただ街なかを歩くだけでも、人々はかなりの“知情意”を働かせている。その奇跡に見惚れる。それだけ街が一定水準のエネルギーを保てているということだ。しかし、ときどきすべてをなげうってしまう人も現れる。エネルギーが絶え絶えの人は「もういいや」と、礼儀正しいフィクションを保っていられなくなる。

わたしはよくお腹を壊すが、便を我慢するときには“知情意”をフルにみなぎらせている実感がある。あきらめたらそこで試合終了である。おそらく、エネルギーが低いと便の我慢もままならないのではないか。「もういいや」と、あとさき考えず漏らしてしまうだろう。

わたしたちには「あとさき」がある。その領域を枯らさないために多大なエネルギーを使う。そうね。疲れて嫌になるときもあるけれど、まあ、適当にやろう。


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